染模様妹背門松 TXT
- 油店の段
- 生玉の段
- 質店の段
- 蔵前の段
聞いて鬼門の角屋敷瓦屋橋の橋筋は、質店浜は油屋のうちは輝く大身代。妹娘は十六の花の姿を花嫁と一門中の山家屋へ結納もすみ来る春の、嫁入拵ヘ色いろの小袖の模様松に鶴。夜よ久松と忍びねの子飼ひの恋としめ合ふて離れまいぞの約束も、知らぬ二親腰元おはり、取散らしたる縫物の、針止めもなき高笑ひ。「イヤもうしお染様、注連さうさうに御婚礼。今（いンま）のうちに山家屋の大黒柱、わしらもどふぞあやかって、竹柱にでもなりたい」と、口ぐちそしるもなまめかし。お染は聞くも胸せかれ、「エエいやらしいこの着る物。もそっとそっちへやってたも。わしが好いたは桃黄色（とうきいろ）。この染込みの松に蔦、取付いていつまでもなんの離れう、離りゃせぬ、疑ひ深い縫込みを、ほどいてほしい」と目遣ひも知らぬが仏女子ども、「縫込みがあってさへ四尺五寸丈。やっぱりこれで置きなされ。ヤ置くついでに久松殿、質店の善六殿呼んで下んせ。駕篭蒲団の談合したい」「オット心得質店へ」「サア出来上った小袖どもお家様に見せませふ」と、てんでに奥へ持ち運ぶ。のれん引上げ番頭善六。「エエさて引散らけたは、嫁入前でうちはモとんと仕立屋同然。アアコリャ女子ども、店先でやかましい。みな奥へ持って行け持って行け持って行け。ソレ久松もお家様が呼んでござる。ちゃっと奥へ行けちゃっと奥へ行け。アアもうしお染様／＼」「用があるかや」「ハイエヘンござりますともござりますとも、マヽヽヽここへお出なされませ。さてマア春さうさうはお嫁入。アアさぞお嬉しかろなア。ガ嬉しうないはこの善六。去年の春からいひかけて、間がま隙がま、口も筆もみなになるほど、いふたり書いたり書いたりいふたりウヽヽヽ。マいろいろさまざまと口説いても、マア胴慾な御心底。山家屋へござっては、どふもがいてもモウ叶はぬ。花嫁御のお初穂を馴染みがいにたった一切、コレエヽエヽお振舞ひなさる気はないか」「エエそんなことしやると、かか様に告げるぞや」「エエなんぢゃ告げるハヽヽヽヽ、ヤ告げるとはありがたい告げる合邦外ケ浜、鬼住む里でもなんのその、コレコレ御寮人様。むごいぞへむごいぞへ。お前いまでこそその様にほっそりさふはりの娘盛り、小さい時にはどふぢゃへ、わしがかう抱へてシイコイ／＼／＼シイとししやったり。懐へ入れて守りした善六。いま惚れたという水上の大事の所は私が臍にひったりと、引付けて抱き歩いた。サそのよしみもあるぞかし、チヨチヨちょっと引付けてくれたがよい。ムコレ、私が心のありたけはこの玉章（たまづさ）に」と懐へ、押込む一通投返せば、「それはつれない読んだとて罰も当らぬお染殿。ぜひに返事」とまた捻込む。「エエいやぢゃわいの」と打付ける。うしろへにょっこり下女のりん。「コレコレコレ番頭様番頭様、コレ番頭様」「エエびっくりさしおった。エエさしおった」「オオさしおったでもあるまい。コレ善六様聞えぬぞへ聞えぬぞへ」「エエなにぬかすぞい。飯焚きの分際でそんなことぬかすと、お家様に告げるぞよ」「エエなんぢゃ告げるオホヽヽヽ。告げるとはありがたい。告げる合邦外ケ浜鬼住む里でもなんのその、コレコレコレ番頭様番頭様。そのやうにこなさんすないのすないの。私もお家譜代の飯焚き、お前いまでこそそのやうに、でっくりどっさりの番頭顔。丁稚の時分にはどふぢゃへ、毎晩私が起して、シイコイコイコイコイシイ、としやったり、後差しで寝たこのおりん。サそのよしみもあるぞかし、チヨチヨちょっと引付けて下んせ」と大手を拡げ抱付けば、「エエいまいましい。アアコリャヤイ、ふはさはすな」と鼻つまみ、勝手へ逃ればえじかり股尻振り廻して追駈け行く。お染はよい首尾久松はと、待つよりも待つ折よしと、「お染様。質店から見てゐれば、善六殿となにやらぢゃらくら。アアお楽しみでござりますな」「エエまたあの人のいやらしいこといふてたもる。善六はおろか、結納（たのみ）のきた山家屋へも、なんぼでもわしゃ行きやせぬ。不孝にならふと無理いふて、叶はぬ時はそなたと二人。ハアここばっかりに陽は照るまいし、どんな山家の奥にでも女夫になってゐてみたい。飯も焚かうし水も汲もう、女房といふてこちの人。下にゐやんせなんぞいな」と、おぼこなやうでもいま時の娘ははやい仕覚（しがく）なり。屈託顔に多三郎。立帰る表の方。「アアソレソレ人が」と二人が敗亡。「アアコレ大事ないおれぢゃ、多三郎ぢゃわいの。マアニ人ながら聞いてたも。どふやらかうやら糸が身請け。源右衛門が知辺へ預けたゆゑ、その方へ行ても、留守ぢゃ留守ぢゃといふてけふまで逢はさぬ。またアノ女郎めも女郎めぢゃ。状一本おこさぬは、玉が腐ったに違ひはない、犬め猫め鼬め、よと胴切をしをった」と話なかばヘ徒歩はだし、あはてふためき来るお糸。見るより多三郎飛んで降り、引きずり込むより、「ヤイヤイヤイ畜生め。おのれマアなんでけふまで便りせぬ、どこにをった胴張め」と、やや腹立のりっぱ声。「アアコレイナ多三郎様。そのお前の腹立より私が悲しさ。源右衛門が夜昼来て、『多三郎がことは思ひ切れ、合点してもせいでも女房ぢゃ、イヤ妾ぢゃの』とモ口説かるるその辛さ、便りせうにもどふせうにも亭主が目角、天神様へ願がけしたその印か、つひに一寸出ぬ亭主。ちょっと出た留守幸ひに、やうやう隠れて抜けて来た。コレ疑ひ晴らして下さんせ」と、こと訳聞いて多三郎。胸はさっぱり、「オオさうであろ。どふでそんな訳とは思へど、逢はれぬから腹も立ち、悪口いふたは堪忍しや」「オオなんの堪忍、疑ひさへ晴れたらば、私しゃ嬉しい」と手をとれば、二人はちゃっとあちら向き粋をきかすも濡れ知る中、目ばやき久松、「アレアレ山家屋の清兵衛様」「ヤこれはならぬ」と三人が、糸を戸棚へ押込むやらどっさくさらとうろつく中、門口はいる聟清兵衛。なにか拾ふて袂のうち、ずっととほれば多三郎。「オオようお出でなされました。コレお染。奥へさうもうしや。久松ソレ煙草盆」「アアイヤイヤ、構はしゃんな構はしゃんな。アアさて切迫しましたの、伯母者人の持病も起らぬかの」と、挨拶とりどり奥の間より、お染引連れ母親は煙草盆提げ立出て、「オオ聟殿お出で、きのふけふはきつい寒じよう、サアサア奥の炬燵ヘ」「アイエイエ炬燵へはいるとかじけます。やっぱりここが勝手でござります」「そんならばはったりと玉子酒、コレ誰ぞおじゃ」と姑の、馳走の玉子ころころと、もてなす折から門の口、「ヤイヤイヤイ多三郎の生盗人。借った物は戻さずに、糸をなんで盗み出した、サア出せ出せ出せ。受取らう、どふ摺りめ」と近所へ響くわわり声。多三郎はみなの手前術なさ辛さ身は冷汗。母親はむっと顔。「コレコレ源右衛門様。日頃野良めと棒組のこな様、心安だてはありうちぢゃが生盗人のすりのとは、親の身では聞きづらい。なんで倅が生盗人ぢゃの」「エエこなたはなんにも知るまい。御子息が首たけ上った京村屋の糸といふ女郎、田舎の客が請出すと聞き、よそへやっては顔が立たぬ、生きてはゐられぬ首くくる、イヤ足くくると、モ栃のやうな涙をこぼし、とこぼえるが不便さ、アアおれがやうな慈悲深い、友達持ったが大きな仕合せ。持合はした定家の色紙、捨売りにしても五百両が値打ちの代物、すっぱりと貸してやった、ガその色紙を質に置いて女郎を請出し、死ぬる命を助けたは、みなコレマア源右衛門様のお蔭ぢゃわいのお蔭ぢゃわいの」「ヤなんといはんす、定家の色紙を質にとった」「オイノ」「コレ善六善六」「ヘイ、ヘイ、ヘイ／＼／＼／＼／＼」「イヤコレ、ヘイどころぢゃない。ちょっとおぢゃちょっとおぢゃ。アノこの間天満で質に取ったと、わしに見しゃった色紙の箱、中はなにやら知らねども、店を任した番頭、粗相なことはあるまいとそのままで置いたが、あの野良めが阿呆遣ひの金と知って、わが身ゃまたなんで貸した。サそれいやそれいや。いひ訳次第で思案がある」と、噛付くやうにせり詰められ、おづおづと顔を上げ、「エエヽヽヽなるほどなるほど、そのお腹立はご尤、ガいま源右衛門様のおっしゃるとほり、若気とはもうしながら、登り詰めた色遣ひの果ては世間に沢山な心中、死ぬるとある若旦那。アア死にしゃらうとままよ、そんなことに大枚の金出しては、お前様へいひ訳がないと私が身をかばひ、見捨て帰ったその後で、もしものことがあった時は、家の疵お前様の恥、大事の家の跡取を灰山にさらしては、不忠になると存じますから、そのお呵りを合点で。アアなるほど色紙を質に取ったは私が誤り、サいかやうとも御存分、主のためならこの体ずたずたに切刻まれても、いとふやうなハイエヘンサア善六めでもござりませぬ」と、いふたところは実事師。底のたくみは、敵役。とは知らず母親は「ムウさういへばそなたにもあんまり科はない。ガ兎角憎いは倅め。コリャ多三郎。わが身はマアこれまでいくたび、イヤモそれいふてゐるとけふ中には果てぬ。マア差当って源右衛門様、貸借りは世上の習ひ、男づくなり念頃仲、それがどふして生き盗人ぢゃの」「オオ生盗人の来歴はコヽヽこの証文、貸したは後の月廿四日、三十日の日数のうち、色紙を戻さずば、請出した糸をそっちへ渡さふといふ文言、その女郎も置きどころはなし、これもまたおれが厄介、飯米続けて養ふうち、日限過ぎても色紙は戻さず、相対のとほり女郎をこっちへと預けた先へ行て見たれば、けささうさう盆屋をふけったわいのふけったわいの。コリャてっきり多三郎がみな仕事ぢやによって、生盗人といふたが無理か無理かお家様。ヤコレお勝殿」「アアコレ、近所の手前もある、マちっと小さい声で頼みます」「アイヤコリャおれが持前でごんす。大きな声は生れつきでごんすわい」「テモマア大きな声ぢゃわいの。シテその女郎が駈落したは、倅めがそびき出したといふ証拠でもござりますか」「オオサアその証拠は、ハアゐぬが証拠ぢゃ」「イヤソリャ証拠にはなりますまい。その白人とやらいふ者には、定めて手足もあろう。どこぞ行きたいところがあって、ほかへ行くまいものでもないに、倅めが仕業とは、モ余りな押当てがい、旦那殿の留守のうちは、質店油店を預かる私、そんなで行くのぢゃござんせぬ」と、ぐっといはれて源右衛門、証拠なければうぢうぢもぢもぢ目と目を見合はす番頭善六。重ね戸棚を顎で教へる色目「ムンムンムン」見て取って、「オオそれほど証拠が望みなら、さらば見せよ」と立寄る戸棚。「アアコレこれ源右衛門様。コリャマアなんとなされます。マめっそふな人のうちの物入れをあけう」「オオ久松お染。二人ながら顔色変へ、隠す戸棚がなほくさいサヽ、のいたのいたのいた」「コレ久松。かまはずとあけて見せい。もし糸とやら縄とやらを、隠してもあろうかと悪根性な疑ひ、打明けて鼻あかそう」と二人を引退け戸棚の戸、あけてびっくりまたぴっしやり、「オオめっさうな、コリャまた派手なアイヤ派手な娘が嫁入小袖、聟殿にさへ見せぬ先、ほかの者に見せともないは、コリャお染が道理。エエ酢につけ粉につけ憎いは倅め、アアなんとせうぜひがない。聟殿の手前も面目なけれど、人様に損かけては済まぬこと。三百両は損にする、コレ善六。ソレ蔵へ往て色紙取っておぢゃ、サヽヽはやうはやう。ナニ源右衛門様。そんなら借った色紙さへ戻せば、女郎の詮議もいひ分もござるまいがの」「ハテ知れたこと。色紙さへ戻りゃいひ分が、したふもない」と煙草盆、控へるこなたに山家屋清兵衛。油店の下男呼寄せてなにごとか吹込む品をうなづきうなづき、男は門へ善六は色紙の箱を持って出で、「コレ源右衛門様。確かに色紙戻しましたぞや」「オオ戻さいでは」と立上る。「アアコレ待ちゃ源右衛門。その色紙を質に入れ借った金は三百両、二百両はなるほど身請けの金におれが遣ふた。ガ後の百両はそなたに貸した。サその金いま戻してたも」「エエヤコリャコリャ多三郎。わりゃマア気が違やせんかへ、ただし寝言ぢゃないか。おれに百両貸したとは、どなたの時代にマどこでいの」「ハテ物覚への悪い男ぢゃ。ソレ天神の小山屋で、証文までして借りながら」「ヤイヤイヤイヤイ毛二才め。証文があるならなぜ出して見せぬぞい」「オオ見せいでは」と紙入より、一通取出し上包み、開けばうちは、「ヤアコリャコレ白（しら）紙、まさしうその時懐から、矢立を出して書いた証文、マいつの間にこの白紙、どふしたこと」と俄かの顛倒。「サヽヽヽどふぢゃどふぢゃ証文見よかい証文見よかい。サア出せ、出さぬかい。エエ出しあがれ」と多三郎が、髻（たぶさ）掴んでにじり付け、「エエなんぢゃなんぢゃ、なんぢゃなんぢゃうぬらなにをびこびこさらすのぢゃい。かうした術（かたり）ぬかす泥棒め。色紙も改めにゃ受取られぬ。サアニ才め、おのれがつけた箱の封、自身に切ってそこへ出せ」といはれて多三郎口惜しながら、封押切って差出す。善六受取り蓋引明け、「ヤアコリャなんぢゃ、色紙はなうて、なんぢゃけたいな本。エエなんぢゃ、お染久松歌祭文」「ソリャコソナ、そんなどふげんと摺替へたどふ摺りめ。四の五のなしに代官所、サアうせあがれ」と引きずる手先。すかさず清兵衛立ちかかり、腕もぎ放して衣かづき、まっさかさまに投付れば、「ヤコリャどうする」と駈寄る善六、眉間を丁ど煙管の火皿、煙草すぱすぱ、騒がぬ山家屋。「アイタヽヽヽ、コリャ清兵衛。なんでおれを投げあがったのぢゃイヤサなんで投げあがったのぢや」「アヽコヽヽヽ源右衛門様。アヽヽヽよろしうごんすよろしうごんす。アイタアイタアイタサア私がせりふします、マア私にお任せなされませ私にお任せなされませ。アイタアイタアイタ、コレ源右衛門様。私が頭一寸ごらうじ、なんのことはない軽業の笛ぢゃ」「ナアなんぢゃい、貴様の頭がなんで軽業の笛ぢや」「サイナ血たらたらたらとけつかるはい。ハヽヽヽヽアアいたアイタヽヽヽ、イヤもうし聟様。山家屋の清兵衛様。ヤ山清やませふこえてあさきゆめみしゑひもせずコレマけふといものぢゃな。仮りそめならぬ番頭善六。かけがへもないこの頭を、沢山さうに割ったぞや」「オオそんなことではまだ済まぬ。二人とも三寸縄、代官所へ引くサ覚悟せい」「エエなんぢゃ引く。ハヽヽヽヽものを盗まれ無実を受け、主の命を救ふた者を、代官所へはコレなんでまた」「テ知れたことぢゃわい。マア第一借った金を返さぬといふが大盗人」「ヤ貸した金とはドヽヽヽ証文見よかい証文見よかい」「オオ証文はその白紙」「エエなんぢゃ白紙。プフウハヽヽヽなにぬかすのぢゃ、神武以来白紙で金銀の借引き、イヤモ聞いたことがないわい」「サアその白紙ぢゃによって貸した証拠」「エエマどぎどぎとどぎ付かすない、どぎ付かすない。白紙が証拠になるかい」「オオなるとも。イヤモづんとなる。コリャヤイいかの墨でものを書けば、半月たつかたたぬうち、元の白紙になるさ。イヤサ知るまいと思ふか、そのたくみを顕はすは、この白紙を火にくべれば、生臭いのが慥かな証拠」「ヤア」「ガそりゃここではせぬ、するところで、ヘヘンして見せるて。ヤさてこれからが色紙の行方」と、質店を差覗き「ナニ利兵衛殿来てか。オオ大儀ながらちょっとここへ」と、呼ばれて出てくる小道具屋。見るよりびっくり源右衛門。「アヽコヽヽヽ利兵衛。貴様ここへなにしに来た。サヽヽヽちゃっと去にゃちゃっと去にゃ」と身をもむ二人が腕捻上げ「ヤそろそろと尾が出かけるで、ヤもがくわもがくわ、アハヽヽヽコリャヤイきのふアノ利兵衛殿が、買はぬかと持って来た定家の色紙、後の月小山家で、源右衛門に借った多三郎、善六がのみ込んで、質に入れたとよそながら聞いてゐるに、マ不思議なことと、出所の根を押して尋ぬれば、源右衛門に頼まれたと聞いたゆゑ、色紙はこっちヘ預って、コリャおれがコヽここに持ってゐる。ガまた多三郎が借りた色紙が、どうしてまたそちが手から、小道具屋へは売りには出たぞ」「サアそれは」「それはとはアノここな盗人めら」と、すぐに左右へもんどり打たせ、箒おっ取りりうりうりう、親子三人久松も、思はず知らずみな小踊り、二度の煤掃きするばかり。小道具屋は色青ざめ、「ヤレヤレ恐しいもめのある代物。ガまだよいところへ持って行て、元のさやへはまりさうな。ヤコレ源右衛門様。エエ悪いぞへ悪いぞへ、色紙は清兵衛様に渡してあるぞへ、えいかへ、アアこんなところにうかうかと、長居したらば傍杖に、ヤ合ふては損恥あっちこち」しんどが利兵衛小道具屋、後をも見ずして立帰る。清兵衛色紙取出し、「ヤナニ伯母者人。このしだらも世間へ出れば人も損じる。また双方の名も出ること、まんまと騙り取らるる金、取止めたを腹いせに、なにごとも穏便に御了簡。なんどきでも源右衛門が百両持って来たら、色紙をお渡しなされませ。マアそれまでは金のかた。コレ随分大事に」「オオ聟殿忝い。しかしうち外ともにきつう物騒な、コレお染私が居間の挟箱へ、ソレ錠前もしっかりと」のみ込むお染とつかはと居間へはいれば源右衛門、身内を撫でて、「アイタアイタアイタ、アアむごい目に合はしおった。なんとせう身から出た錆ぢゃ。ガ笑止なは善六色紙をすり替へたも、証文のちゃらてんも、おれ一人のみな仕事、科ない者を可哀さうに、アアえらい目にあはしたな」「ハテよごんすはいの、よごんすはいの。強い者には勝れませぬ。なぜとおっしゃれや、あっちは一人、こっちは二人、負けても恥にはなりませぬ。ウハヽヽヽヽ、ヤあっぱれ手のうち花聟様。アアヤモ男ぢゃ、きよといものぢゃ、ガこれほど達引なさるる清兵衛様。互に結納取交はせば、もう女房のお染様。不義知られても大事ないか。イイエイナ、密夫知られても男が立ちますか」「ヤイヤイヤイコリャ、阿房め焼け面火にこりずと、まだなんのかのと人のわんざん。サ娘が誰と不義をした。なんで密夫」「イヤもうしお家様。いふまでもござりませぬ、最前色紙の箱から出た、コヽヽヽこの草双紙、エエお染久松袂の白絞り。サこのとほりの道行本、モウ世間ではもっぱらはやりますぞへ。ヤとてものことに私が、ちょっと語ってお聞せもうしませう。時に源右衛門様。御苦労ながら、口三味線のおあしらいとはどうぢゃな」「オットよしよし承知之助ぢゃ。オオ幸ひここにどやされた箒がある。ササこれで弾いてやろやってくれ／＼」「なんぢゃ箒。エウハヽヽ棕櫚胴に竹の丸棹とけつかるわい。ハヽヽヽヽサヽヽヽ、そんなら一寸調子合はしてんか、調子」「オットよしよし、サヽヽヽ始めてくれ始めてくれ」「やりますぞへ」「オオやってくれやってくれ」「マア一寸壱一ツ聞かして」「オオよしよしドン、ドンドンドン。二、トントントン。三、テンテンテン」「エヘンエヘン東西東西このところ相勤めまする浄るりの芸題、お染久松袂の白絞り、すなはち相勤めまするは竹本善太夫、三味線さぐり沢源右衛門。いよいよこのところ上の巻から読上げ奉る」「ハピヨコピヨロコピヨツピヨコピヨコ」「アアコレ源右衛門様源右衛門様。マちっと静かにやってんか。アアきたな、私が顔は唾だらけぢゃがな。アアくさアアくさ、マちっと静かに頼みますマちっと静かに頼みます」「オットよしよし」「サアやってくれやってくれ」「やりますぞヘ」「オオやってくれやってくれ」「しからばまづこのところ下の巻より読上げ奉る」「ハピヨコハピヨコハピヨコハピヨコ」「恋と」「ハピヨコピヨ」「書いたる」「ピヨコピヨコ」「一字には」「ピヨロコピヨロコピヨロコピヨロコ」「コレ油屋お染を引っかけた。チョイとなめた」「ハヒヨヒヨヒヨヒヨヒヨヒヨ」「エエやかましいわい」清兵衛綴ぢ本引ったくり、「コリャヤイ善六」「ヘイ」「これがどふして不義の証拠、この広い世界に、お染といふ名も久松といふ名も、ここよりほかにはないか」「マアないは」「ア気のせまい奴な。殊にないこともあるやうに、面白おかしう作りなして、銭儲けする世知賢い世の中。こんな本が百冊あっても、清兵衛が立たぬといふことはない。いらぬ世話ぢゃヘヘンおいてくれ」「ヤ妙みやう、トツト成田屋といふ心持ちで、えらいわいえらいわい。こんな本が百冊あっても、清兵衛が立たぬといふことはない。いらぬ世話ぢゃおいてくれいとこの本を、おれが頭ヘコレちょいのせぢゃ、ハヽヽヽテアモマ結構な御了簡、シタガまだまだまだ、確かな証拠がおあしますぢゃ、コレコヽヽヽこの状は、最前娘御の懐から、落ちたをちゃっと拾ふておいた。オットドッコイ、久しい奴ぢゃがエヘンマそれから御覧じ。プハヽヽヽサヽヽヽ、もうし旦那様。高らかに読んで御覧じませ高らかに読んで御覧じませ。われわれこれにてサマ聴聞いたそ」と文を渡せば久松はっとばかりに赤らむ顔。重なる証拠にいひわけも胸を痛めるばかりなり。清兵衛は袂のうち拾ひし状と取替へて、さあらぬ顔にて封押切り。「ムムそんならなにかこの状が久松からお染へいたといふのかへ」「ヘイさやうさやう」「ムムソリャ確かな証拠ぢゃ。そんならとっくりと読んだ上では、密夫の成敗せざなるまいわいの」「エヽヽマヽヽさやうともさやうとも。サヽヽちゃっと読んで御覧じませちゃっと読んで御覧じませ」「エエなになに、『いつも変らぬ繰り言ながら、またまた文してこの由もうし上げ参らせ候。近き春には山家屋へお越しあらば、わが思ひあだごととなり、思ふに甲斐もなくばかりに候。エまたまた兄御の野良松殿は』。ムムウこの兄御の野良松とは、コリャ多三郎がことかいの」「へヽヽさやうさやう。アノマア御発明な御子息様を、野良松ぢゃのなんのと、前髪だてらマ悪い奴な。サヽヽヽ後をちゃっと読んで御覧じませ後をちゃっと読んで御覧じませ」「ヨシヨシエエ『兄御の野良松殿はいまの間に追出され、後のしまりは番頭の役なれば、みなみなわれらが心のまま』」「アアコヽヽソリャ違ふ違ふ違ふ。それぢゃないそれぢゃない」「デモ読めといふたぢゃないか」「サア読めは読めぢゃが、ワアアソリャ違ふてる違ふてる。そんな埓もないこと書いてあらう筈がないテモマ面妖な、ハア面妖な面妖な」とうろうろ眼。「ハテやかましい奴ではあるわい。しかし後の文句は長たらしい。宛名ばかり読もわい」「イヤモたいがいなら読まずと置いて貰いたいな」「イヤイヤ宛名が肝心ぢゃ、エエ『お染様参る善六より』。ハアこの善六とはコリャ誰やらがことであったわい」「サア私もどふやらコウ承はりました名ぢゃと存知まするが、アアコオツ善六」「アアコオツ善六。善六善六善六。ムム善六や」「ヘイ」「オわれ」「オオわしぢゃ」「ヤアわりゃマア、清兵衛という主のあるお染に、おのれは不義を仕掛けたな」と、気相変れば、「アアコレマア待って下されませ待って下されませ。コリヤマアなんのことぢゃい。するほどのことがみなぐりはま。エエマけたいの悪い」と身をもがく。母親は腹立声。「コリャ善六。おのれはようよう七つの年、寒のうちに袷一つで、尺八のやうな鼻たれて、在所からうせたを忘れ、さまざまの目算ごとで、親方をたぶらかし、まだその上に主の娘に不義仕掛けるとは、マいふやうのない人でなし。木の空へ上げる奴なれど、聟殿の挨拶といひ、娘が婚礼前なれば、そのままで隙をやる。出て行きおれ」ときめつけられ、返す詞もなげ首しぶつぶつつぶやき立上れば、源右衛門気味悪く、おづおづ連立ち、日暮紛れ、人顔見えぬを幸ひに、こそこそこそ、こそこそこそこそこっそこそ、こっそこそ、こっそここっそここっそここっそここっそこそこそこそとこそ、「源右衛門様。アアひどい目に合ひましたな」「サアえいわい。マ行け」と、立帰る。母親は溜息つぎ、「ヤイ多三郎。爪に火をともすやうにして、稼ぎ溜めた親の身代、マ小沢山さうに、二百両の三百両のと、よう遣ひ捨ておったなア。アノやうに身持のよい聟殿の手前、余り面目なうて私や顔が上げられぬ。世間の手前もあり、勘当ぢゃ。出て行きおれ」と睨むまぶたに不便の涙。清兵衛は目をくすり、「お腹立は尤もなれど、若い時はあるならひ、たった一人の跡取を、勘当が見めでもない。マア私が連れて往んで、とっくりと意見しませう。サア多三郎おぢゃ」と立上れば、「なにがさて詞は背かぬコレ久松。あのなりで往ったら一倍聟殿の心遣ひ、ソレ戸棚に入れてあるナ野良めが着替へ、とてもの世話ついでに、聟殿にことづけいや。着春への傍離れたら、ひょっと短気など出しをろかと、案じるは年の科、清兵衛殿放して下され」と、いひ捨て奥へ立って行く。後久松が、明ける戸棚の糸は駈出で、「アアもうしだんだんのお情」「アアコレハシタリ、挨拶もなにもかも、二人ながらこちへ来てわっさりと正月しゃ。ヤほんにおれが手を引いていては、どふやら鴛鴛の中へ鴨が入ったやうで、ナサニ人手を引いて、そろそろ先へ行きゃ」と、二人が手を取り表へ出でしが、「ヤコレ久松。そこになにやら、アア善六が額の血か。アアコレ拭いておきゃ。ソレ反古やろ」と、投出す以前の文「エエこれは」「イヤサ人の見ぬ間についぼやぼやと、ヤサ火のい用心気を付けや」と、はたと表を締めくくり、船場を差して、「アアヽ若い者といふ者はテモマはやい足なア」と立帰る。うぬが名の、善にはくらき丑満時、また立帰る二人連れ、戸脇の袖壁ぎしぎしこぢるか切るかと見れば、灯影にきらめく白刃。うちには燈火吹消して足もわなわな久松が、白浪すっぽりと、なんなく切明け善六は、忍び入るより貫の木はづし、くぐりをそっと、「源右衛門源右衛門来てか」「オオ善六どこにゐるぞい」「オオここにぢゃ」「エエどこぢゃ」「ここぢゃ」「どこぢゃどこぢゃどこぢゃどこぢゃどこぢゃいどこぢゃいどこぢゃいどこぢゃい」「オオここにゐる」「うちの勝手は知ったわれ。色紙のあり所は婆めがゐる。狭み箱ぢゃぞ」「合点ぢゃ」「ぬかりはないか頑張れ頑張れ」「ついでにお娘もかたげて来る」「オヽオヽヽしてこい」と、探り廻って奥の間へ行くをすかして窺ふ久松。奥より探って出る善六。闇はあやなき挟み箱、どっかりおろす上り口。のみ取出して錠前かっちり「アイタアイタアイタ」「善六、明いたか」「イヤ親指をつめたんぢゃアイタ／＼」われと驚き身に手を、あたり窺ひまたかっちり、なんなく錠前こぢ放す。音を導にはひ寄る久松。傍にいるとも、知らばこそ、蓋引き明くる手を入れる、色紙は久松取ったも暗がり、傍にあり合ふ駒下駄を、そっと入れたも知らぬが仏、色紙と心得舌なめずり、「源右衛門源右衛門」「オオ善六か首尾は」「ヘエン、まぶぢゃわいまぶぢゃわい。お望みのソレ色紙」と、渡すもうつつ受取るも、気はかみずりの、二人連れ、駒下駄いただき一散に、打連れてこそ、出て行く。
実に大坂の繁昌は数生玉の御門前、祝ふ萬歳曲手鞠、能も放下も声立てて賑々しくぞ見えにけり。夢と見て、現にあふて幻と、立つかひもなき妹背鳥つがい放て後や先、しやれた振袖江戸褄の、若紫にお染こそ深きちぎりを久松と地蔵めぐりにかこつけて人なき道は手を引て相合かさの二人連れ「アレ見や行き来う人々の、ヨウ／＼うまい二人連、若い女夫」となぶられて、恥づかしいやらうれしいやら夏も晴れゆく広小路この久松は気もそぞろ、顔はほやけの地蔵尊ぬぐりめぐりて生玉や、恋と見えすく伊予すだれ、小影にしばし立やすらひ「イヤ申しお染様。思ひ廻せば廻す程、生けては居られぬこの久松、御恩を受けた旦那様のお目をかすめて忍び合ひ、お主のお前と女夫事。こちはかくせど人は知る。大事の大身に悪名の立つも誰ゆゑ、私がみんな仕出したるばち当り、お赦されて」と斗にて合す両手をじつと取り「アノ久松の言やる事はいの。こふした訳になったのも、皆わしゆゑにそなたの辛苦、むすぶ互の悪縁も、ほれたが因果その様に、なぜに女に好かるゝよふ可愛らしゅう生まりゃつた」「エヽつがもないお染さん。そふおっしゃるお前こそゑくぼに人を迷はして」逢瀬嬉しきかりまくら、人目の関を忍ぶ身はつめたき冬の夜嵐が、松吹く音にだまされて、本意ない事の数々を、言ふて見返る木戸の前、お染は看板打眺め「コレのう久松。あの看板の書付けに、お染久松祭文とは、よそにも丁度同じ名が、あればあるものさりながら、不思議なことぢゃないかいの」「ハテこの広い世界のうち、同じ恋路も同じ名も、それに不思議はなけれども、歌に唄ふはこちらよりせつないことがござりましょ」「ほんにのう。アノよその久松も、そなたの器量にちつとなと、似たところがあるならば、よそのお染も惚れたぢゃあろ」「なんのまあ、よその久松はわたしがやうな丁稚ぢゃあるまい。したがよそのお染にこのようなよもやゑくぼはあるまい」と、じやらつき合ふてどのやうな仲ぢゃぞちょっと立聞こと二人は垣にもたるれば、声無常めく錫杖√ところは都の東堀、聞いて鬼門の角屋敷、瓦橋とや油屋の、一人娘にお染とて年は二八の細眉に、うちの子飼いの久松が、二人はハッと顔見合はせしばしあきれてゐたりしが「アレ聞きゃ久松。よそのことかと思ふたもいまは二人が身の上を、歌に唄はれ世に知られ、どうまあ生きてゐられう」と、くどき歎けば久松も「イヤもうしお染様。世界に心中おほけれど、死なぬ先からこのやうに世に唄はるるは神仏に、憎まれ果てたそのしるし。歌浄瑠璃と聞き流せど、まことに聞けばみなまこと、とても死なねばならぬ身と、天道様がわれわれに教へ給はるお詞ぞ」お染も縋りつき、果てし涙の泣いじやくり。いつの間にかは向ふへ善六。「ヤアよいところで出っくわした。折角忍び込んだれど、色紙もすかたんこなたもかたげ損なう、すでのことにくくられるを、やうやう逃げてけふまでも、うろたへ廻るは誰ゆゑぢゃ。みなこれお染様お前ゆゑ、まだ意趣のある清兵衛め、仕返しがしたうても、あっちは強しおれは弱し、幸い先度の歌祭文、この店で語らすも清兵衛めが顔つぶし、嫁入も変改させ、久松も追出して、お娘をわれらがしめる細工。作者は善六なんときついか。憎うもあるまいお染様」と抱き付けばふり放し「エエいやらしい。アレ久松」とうしろにかがめば「どっこい」と、追つかけ廻る善六が腰の脇差抜きとる久松。「ようも浮名を立てさした。覚えておれ」と真向うしゃっぷり。「うん」と一声即座の最後。「サア人を殺せばなほもって、生きてはゐられぬお染様。さらば」といひざま突込む刃。「一人はやらぬもろともに」と、辺りの井戸へまっさかさま。身はかげらふのありやなし。胡蝶の夢とさめ果てて、思ひは重き石の、火の光とぼしき油屋のわが住む家居と、なりにけり。
『この間大坂町まちでご評判の高い色事、このあたりで大きな声ではもうされぬこと、一人娘と子飼の丁稚、しめて寝油しんとろとろり、節はすなはち祭文口説」上下にいたしてとぢ本が六文、大きな声では、いはれぬこと大きな声ではいはれぬことぢゃと、いふも高声町まちのもの騒がしき大晦日。質店の帳箱を濾生が枕肝胆を砕く久松思ひ寝の、夢おどろかす初夜の鐘ふっと目覚まし「ハア嬉しや夢であったか。したがあの売声は生玉で見た歌祭文。とりも直さずこりゃ正夢、あれもやっぱり善六めが拵へて売らすのか、引きとらへて」と立上がりしが「イヤイヤイヤ止立てしたら身に覚えがあるゆえにと人の口、エエ憎い奴といふもこっちの得手勝手、所詮死ねとのいまの夢、人をも世をも恨むまい」と、またいまさらに身の覚悟。「ノウコレ久松久松」と、思はず店へ駈出るお染、顔見合して「ヤア久松。そなたの身には別条ないか」「お前もお怪我は」「そんならそなたも」「お前も夢を」「ハア」『はっ』とばかりにめいめいが、最期の夢の夢合はせ、幾瀬の思ひぞ辛気なる。くぐり戸ぐはらり「久松殿。札は昼おこしておいた。布子下され、ソレ元利」と、銭投出して受出す布子「ヤレヤレ嬉しや／＼、すでのことに一張羅を、遠いところへやらうとした。ア命あれば正月に、合ふてめでたい忝ない。イヤモとかく命が物種ぢゃ。嬉しやめでたや、春の始めにゆるりと逢ひませふ」と、いそいそ帰る辻占を、お染はいさみ『アレ聞きやったか久松。せんども死なふとしやったを、無理に止めてけふが日まで、ながらへゐるもどふぞして一日なりと夫婦ぢゃと、いはれて死にたいわしが心」「ハテ一寸延びれば尋とやら、気を浮き浮きと持ちゃいの」と、力付けても心根はともにしほるる目に涙。涙ながらに稚子を裸にしたかぬくもりの、さめぬを待てど身は寒き、解きわけがけの女房が「コレ丁稚殿。こんな小さいものは邪魔でもあろし、また値打もあろまいけれど、こなさんの呑込みでどふぞ四百借して下んせ。知らんすとほりこちのわろの長煩ひ、親子三人がほんの居喰ひ、正月が来たとて楽しみもない沙婆世界。アいややのいややの。いっそ死んでしまふたらこの苦はとんと助からう。アア因果とぎちかは死にかねます」と、涙にまじる水涕を、すすり上げればこなたにも、身につまされて落ちかかる四筋の銭の目もわかず、渡せば戴きしほしほと、帰る姿を見るに付け「どうで死ねとの辻占か」と、また涙にぞくれけるが「もうしお染さま。先度もいふて口説けれど、二人一緒に死ねば心中、恩と情のご主人や、清兵衛さまへ義理立たず、わたしはなんぞ詰らぬ訳を偽りながら書置して、死んでしまふがもうし訳。お前はながらへ山家屋へ、嫁入をなさるれば、親御様へはご孝行、清兵衛さまのお顔も立ち、世間にぱっと立つ浮名も人の噂も七十五日、そのうちに沙汰もやみ、お前のお身もご両家も、納まるはついいまのこと。お馴染がいには折節にただ一遍のご回向も、ほかの千声万部より、嬉しう成仏いたします」と後は詞もなき入れば、お染は顔をふり上げて「ソリャ曲がない胴慾な、尊いも卑いも姫御前の肌触れるのはただ一人、親兄弟も振捨てて殿御につくが世の教へ。それにまだまだ悲しきは、ゆふべの風呂の上り場でこの腹帯をかか様が、見付けさんして「コレヤお染。この腹帯はなにごとぞ、とうからやうす知ったゆゑ、たびたびの強意見爺御の耳へ入れまいと、辛抱したがもふかなはぬ。情ないことしてくれた』と、泣きしづみいてのお腹立、そなたに案じさすまいといままでかうと岩田帯隠していたがこんな身で、どふ嫁入がなるものぞ、一緒に殺してたもいの」と膝に打伏し、しやくり泣き、「お染お染」「それそれ呼んでぢゃ、マア奥へ」と返事はしながらも心はここにおきの船、裾もほらほら走り行く。かくとはしら髪白梅の折り知り顔に咲く花を、手折りて来鳴く鶯の、鳴く音は月日干蕪年頭歳暮の礼をかね、一荷に荷ふ藁ふごは、久松が親野崎の久作。「オオ親爺さませつろしい大晦、殊に夜に入ってお出では、なんぞ急な用でもあってか」「イヤイヤ、いつもは年明けてから礼に来れど、今年は梅もはやう咲き歳暮の礼を兼ねるに春来るは異なものと、どちらもはづさぬやうに境目の大晦、嘉例の生花旦那さまへ上げましてたも、アアこの干蕪もまた嘉例。このやうに皺のよるまでお出入をするやうに、お家さまへの手土産」と草鞋とくとくお上に上がり「コリヤ久松よ、このお家こそ金持で、際の払ひはいつでも一昨日ちゃんとしまふて、モウ正月のやうなれど、おいらが在所はいま頃が合戦最中、なかなか来られるわけぢゃなけれど一時もはやうと気を急いて来たはナ、いつがいつまで鋤鰍取ってもよい果報も掘出されず、幸ひ隣の与四郎が妹、おくめをこのじゆう貰ふておいたも、おぬしが暇を旦那へ願ひ、連れて去んで身上渡し、一枚敷を囲ふてなりと、おらは隠居する心。旦那へ礼は付けたりぢゃ」と落付顔にいひ出すを、聞く久松は死神の、付けたる上に在所の女房持ってはあれほど思ふて下さる娘御へ義理立たずと思ふ色目を押隠し「親父様なにいはしゃる、わしが年はまだ七年、これから先がご奉公、留守預かったりこのやうに店の用にも立つ最中そんなこといはしゃったら旦那さまのお腹立、もう逢はずと去んで下され。親父が礼にわせましたと、よいやうにいふておこ、サアサアはやう」とせり立つる。「ハヽヽ賢いやうでもまだ子供ぢゃ。ハヽヽコリャヤイ縁付のことや親の後立てることはナ、どこの山椒太夫でも悦んで隙くれるは、世間になんぼもあること。旦那へいふたら早速に隙はさておき、召しおろしの裃を貰ふて見しょ」と、立つを引止め「アアコレ、いかにこなたが文盲な、土百姓でも相応な義理と法とは捨てられまい、八つの年からここへ来て、西も東も知らぬ者をご夫婦のお世話になり、手習算盤、夜よるは四書の素読も習はして、親より深いご恩を捨て、礼奉公もする筈を、年季のうちにどふ出られう。イヤモ無法な人ぢゃ」とやり込むれば、久作額に青筋立て「ホウ親方のおかげで物読みしたしるしか。さっぱりとした詰開き、道筋が立って面白いわい。おりゃ知るとほりあき盲、いろはのいの字は、右からやるか、左からこしらへるか、そのわけは知らねども、大恩受けた親方の娘御をそそなかし、徒かはく学問は、よもあるまいと思ふているはい。よもあるまいと思ふているはい」「アアコレコレコレそりゃマアなにを聞きはつって」埒もないこといはしゃんな」「ヤイヤイヤイぬかすなぬかすな、あらがふな。そぶそぶ噂聞いた上、たったいま長堀の叔母がところへ寄ったれば、お家さまからこのご状。久松に意見してくれと、コリヤヤイ、大盗人の己にナまだお慈悲な内証で頼んでおこさしやる心のうち、ありがたいやらおいとしいやら、己を荒立てたら、片相手が死ぬるの生きるのそれ悲しさの状使ひ。殊にれっきとした婿殿の極まってあるお娘御、それを取込み嫁入をちゃちゃ入れて変改させ、この後式をしてやらふという己こりゃ悪工ぢゃな。もし子に迷ふて義理ある婿殿の縁を切り己を娶はせ、花香もないお気にも染まぬ祝言させ、燐あたりへ歴れきの聟や舅の行交ひ見る度たびに、エエむやくしい。娘一人を棒に振ったもアノ久松の犬めゆゑと一生睨み付けられてなんの手柄になることぢゃぞい、なんの手柄になることぢやぞい。ヤイ六十に余るこの親はな、麦飯に五斗味噌汁、栄耀喰ひはようせねど、在所住居の気散じは、腰屈める相手もなく、悪を勧むる友もなければ、こんにちを真直に暮らすこそ人間なれ。非道なことして栄耀がしたいかい。アアそのやうな根性とは知らず、ココこの足の皹を見をれ。二三月頃の餅のやうにほっかほっか割れてあれど、この冷たいにまだ足袋もはかぬぞよ。けれども己は小さいから、結構な家に奉公して、楽に育ったやつぢやもの、お仕着せの木綿足袋ではもし冷でも受けおろかと唐物町三界へ廻って、大枚の銭六百出して見たこともないこの革足袋、畜生のやうな己に履かさうてて買ふてはこぬはい。親の意見の杖も穢れ、畜生の革で拵えた」この足袋が分相応。戴きおれ」とばたばたばた叩く親身の強意見。「悪口ぬかしたこのおとがひゆがまぬがまだ不思議」と、また振上げてちゃうちゃうちゃう身の誤りと親の慈悲、骨身にこたへ詫涙、お染は駈出で「コレコレコレ久作殿。久松の業ぢゃない、みなわしから起ったこと、堪忍してやっていの」と、押隔つれば恨めしげに「オオ娘卸さま。よう可愛がってかばふてやって下さります。忝ないといひたいが、エエ聞えませぬ／＼聞えませぬはいのう。天にも地にもかけがへのないこの伜め、立身がさせたさに、八つの歳からご奉公。その大事の一人子を、木の空へ上げる色事、よう教へて下さりましたのう。ひょつと出所の沙汰になり、主の娘を密夫密夫と青細引でもかかったら、なんと身も世もあられませう。なんと身も世もあられませうぞいの。それが不便さ気遣ひさ、一年に一度の元日も打捨て、お暇の願ひはみなあいつが可愛さから。その親心も知らず、在所へ去なぬと意地張るも、大方こなさまの腰押ぢゃなと、サこのやうに慮外をもうしますも詰るところはあいつがため。これモシよいお子ぢゃ、ふっつりと思ひ切っておれは嫁入するほどに、在所へ去ねとたった一口おっしやつて下さりませ。と手を合はし、こぼす涙に洗濯の布子の糊も落ちぬらん。「アアコレコレ旦那殿の居間が近い、まそっと静かに静かに」と、暖簾を上げてお染が母。はっと驚く久松親子。「なんにも驚くことはない、やうすはみな立聞きした。子を持つ親の心は一つ、娘に恨みわが子に意見も、みな子に迷ふ親の因果。許婚の清兵衛殿、もとはお主の若旦那、小さいとき親御に離れ後見の太郎兵衛殿御一家衆やお町中が伯父分になされたも本家を粗略にさせまいため、二人ある子供のうち妹のお染を本家の嫁にと仲人は御宿老様、その上婿の清兵衛殿、男気な生まれつき」何もかも一人の飲みこみ、お染が不義も知らぬ顔で、変改もさっしやれぬは、こちとが心を安めるためと娘にきずをつけぬ了見。ここのところをよう聞きわけ、これまでの縁と思ひ切り、どふぞ在所へ去んでたも。久松頼む、わしが気を推量してたも。この間も夜更けてお染が寝間へ行き、わっつくどいつ意見すりゃ泣いてばっかりゐるゆゑにもし煩ひでも出よふかといひ止みながらも得寝ぬは、つきつめた気でひょつとまた、刃物三昧仕出さうかと、夜着にまかれて夜明けまで、寒さにこらへて寝ずの番意見するのも声びくに、アノ気の短い爺御前やうち外の者にも知らすまいと、火鉢さへ取寄せず、震ひ上がるも娘ゆゑ、ちっとは聞分けないことか」と身を投伏して泣きかこてば、二人は「不孝と悪縁を、悔やむにおもき身の罪科。このままここで死にたい」と、声をも上げず泣きゐたる。久作涙すすり上げ「ア子がなうて泣く者はないと、たとへにいふもみなこのこと。御慈悲深いお家さまのお詞、よもやいやとはいはれまい。ふっつりと思ひ切るか」「アイ」「在所へ去んで女房持つかい」「アイお主と親のお慈悲の意見、なんの否ともうしませう。お染さまのことはふっつりと思ひ切り、すぐに在所へ帰りませう」「オオでかしたでかした。よういふたナ。さうするがお主大事親孝行。久松過分な嬉しい嬉しいぞよ。サアサアもうえいもうえい。泣止め泣止め。ドレぢぢかんでやろ。サつんとせい、つんとせい。サアお家さま、私が方は片付きました。娘御にも大誠乞ひ」「いはしゃるまでもない。久松が思ひ切るからは娘もいやとはいやるまい。向後心入れかへて、山家屋へ行きゃ、ヤ」「アイ」「ヤ」「アイ」「エエモついあいとばっかではすまぬ、しつかりと返事しや。義理を知った久作殿の、詞をむそくにしやると、わしゃもう生きては得ゐぬ」と、覚悟の剃刀取出せば「アアコレかか様勿体ない勿体ない勿体ないはいなア。久松のことはとんとこれきり、山家屋へ参ります。こらへて下され謝まった」と、すがり歎けば「オオよう得心してたもった、よう得心してたもったの。恋に上下の隔てもなく、二人と枕は交さぬと、女の道を、立てとほす娘を叱って二人の夫、持たすも世界の表向き、無理な親ぢゃとかならず恨んでたもんな、諦めて」と、膝に抱上げ抱きしめて、声を忍びの泣いじやくり。「オオお道理でござります。さりながら、かうしてゐては両方に念が残る。久松めはいますぐに在所へ連れて帰りましょ」「オオソリャよい思案、ぢゃが待って下され。常と違ふて大晦日、とかういふうちモウ元日、いま去なすもどうやら気がかり。もう一日二日にぬかりもあるまい。春さうさう迎ひにござれ。旦那どのへもわけいふて、暇もわしが貰ふておこ」「いかさまなア、旦那さまの耳へも入れず、連れて去ぬるもマア不躾」「そんならきつうふけぬうち」「ハイお暇もうしましょ」と立上がりしが「イヤもうし、圧状づくめになって手を切ったなか、まだ生なましいこの二人、昼は格別夜通しの大晦、ご家内もくたびれて、ひとしきりは眠となる、もしその間に」ナ、もうしどふもこのままでは置かれませぬ。不遠慮なれど蔵の鍵、お貸しなされて下さりませ。夜の明けるまで蔵のうちで久松めは番さします。さうして置いて帰りませねば、この胸が、この胸がどふもたまりませぬ」「なるほどさうぢゃ遠慮はいらぬ。」それ蔵へ連れて行かっしやれ」「ハイ。さやうならすぐにお暇、年明けたらばさうさうに、お家さま。なんにも□へは出しませぬ。お礼はかう」と、伏拝み伏拝み、久松連れて中庭から、蔵へ急ぐは仮りの牢、□には思ひきりのとう背筋の紋の見えるまで見送るお染が手を引いて、居間へ入れば九つの鐘かうかうと
轟かす胸も板縁そろそろと、忍び出でたる娘気は、恋路の闇の暗まぎれ、心は先へ飛石の冷たさ恐さふるはれて、膝もわなわなやうやうにさぐり寄ったる蔵の前「久松そこにか冷たかろ。さぞ寒かろ」といふ声も歯の根も合はぬ、ふるひ声。うちにもそれと恋しさの顔差出せど窓の網。あやも涙の声ひそめ「逢ひたかったお染様。今生の逢ひおさめ、マ一度お顔が見たけれど、心にまかせぬ今宵の闇、これまで忍び逢ふ夜さは、月夜を恨み闇の夜を指を数へて待った報ひ、かはす詞が暇乞ひ、やうすはお聞きなさるるとほり、在所へ去ねば気に入らぬ女房持って百姓業。それまでもなく大恩のお主の家に疵をつけ、世間一枚口の端に呼び謡はれてお情の清兵衛様のお顔を汚しとても生きては世の人に顔見合はすも恥づかしく死なねばならぬ私が命。宵に見た夢のうち、自害して死んだのは、もう魂は飛んで出た、知らせでがなござりましょう。くり言ながらお前は存へ後弔ふて」といふ声も咽につまりてむせ返へる。お染は窓に伸上がり「オオ道理ぢゃ／＼道理ぢやわいの。なんの生きてゐられうぞ。わしとても親おやの心に背く夫結び、振捨てて山家屋へたとへ往たとて人の口」あれあの山家屋の嫁を見い、可愛想に久松が思ひ詰めて死んだのを見捨ててすぐに嫁入りは、大身代の山家屋で栄耀がしたさぢゃみな慾ぢや、厚皮面な女ぢゃと、大坂中に指さされ、人に憎まれ笑はれて、人交はりがなろかいの。生恥をさらさうより、いとしいそなたと一時に、死んで未来の契りが楽しみ。かならず呵ってたもんな」と口説き歎くぞ道理なる。「アアこれ声が高い、アレ仏前にても旦那の声。お勤めが始った。あのお声が聞納め長々お世話になった上恩を仇なるこのしだらお赦されて下さりませお染様スリャどう云ふてもご一緒に」「サイノどうも生きては居られぬわいの」「ご尤もでござりますそのお腹ではなるほど生きてはいられますまい」「エエ悲しい事を云ひ出してたもる。五月こせば人の形二人が中の奔走子可愛や因果な腹に宿って月日の光も見ず闇から闇に迷うと思や身ふしが砕けていじらしいわいの／＼」「オオさうでござります。その子ばかりかお前も」「そなたも」「この世の名残は真の闇」「所隔てて死ぬるとも未来は必ず一つ蓮」「連れ立って参ります」と内と外とに園原やありとは見えて声ばかり今を限りの暇乞ひ仏前には親太郎兵衛看経の声殊勝なり「アレ／＼久松夜明けも近いか。元朝のお勤めこれからが白骨のお文さま。そなたやわしや腹な子の、未来の引導聴聞しや」「『それ人間の浮生なる相をつら／＼観ずるにおほよそはかなきものはこの世の始中終幻の如くなる一期なり』」「お染様アレお聞きなされませアノお文に違ひはない。思へば夢の一期でござりましたな」朝は紅顔あって夕には白骨となれる身なり、野外に送りて夜半の煙となし、果てぬれば唯白骨のみぞ残れり「さぞあの通りに死んだあとではとと様かか様の嘆き悲しみ今見るやうでおいとしぼい、これ申し不孝を赦して下さんせ」はやく後生の一大事を心にかけて阿弥陀仏を深く頼み参らせて念仏申すべきものなり、あなかしこ／＼いひ合はさねど二人とも、これがこの世のお別れとわっと泣出すその中にも「今死ぬる身の偽りを誠と思ひ親父様『寒かろけれど夜明けまでこの蔵に居てくれい旦那に隠して夜明けにはお家が出して下さる筈、二日の朝は迎ひに来る』といそ／＼として去なしゃったが、死骸を在所へ連れて行てさぞや恨みのくり言と思へば悲しい／＼」と窓に喰い付き泣きゐたる。かくとは知らず坪のうち、『なにやら物音気遣ひ』と、障子ぐわらりと親太郎兵衛。「そこに立っているは誰ぢゃ」「アイ私でござります」「フムお染か。この寒いになにしている」「サこれはナ、あの、オオそれそれ余り炬燵の火がきつうて上気したさかいで、ここへ冷ましに」「フムそれでそこにゐるか」「アイ」「そんならまあちょつとここへ来い、ここへ来い。知るとほり先度のもやもやからうち外の者や嬶が手前、子に甘いといはりょうかと思ひ、常住こわい顔していたれどナ心のうちではおりや、なんにも呵っていやせぬぞよ。マア案じな、案じな。兄の野良めで年明け殿の世話でとんと心入替へ商売に精出そと云ふ詫び言われが嫁たら早々戻り糸とやら云ふ女郎は清兵衛殿の妹にしてわれもむ入りと後先にこっちへ嫁にとる筈に極めた。またわりゃ義理ちゃくちゃと山家屋へ行くはいやぢゃそうなけれどコレ媒人がいのある嫁入り云はいでも合点であろなにかはおいて両方の町のお年寄り今更変改してはこの衆の顔も立たず本家を粗末にすると云はれては太郎兵衛人中へ顔出しがならぬ。われも時分の娘ぢゃもの、なにか思ひ合うた者もあるであろ、それぢゃてて呵りゃせぬ。けれどもかうしたわけじやほどにどふぞさっぱり何もかも東堀へ流してさっぱりと嫁入りしてくれい。同じ男を持たすなら好いた者に添わしはせいで、むごい親ぢゃと恨んでくれるなよイヤモ恨むる分はなんぼ恨んでも憎んでも構やせぬが一筋な子供心で埒もないことやなどして、薗八節とやらの道行に語られる様になったらばおりゃモウ泣き死にかなするであろ、ナ呑み込んだか得心したか今御前で戴いた白骨のお文は元朝と灰寄せとに戴く段、あの通りぢゃほどに生きている間が花、死んでしまへば美しいその顔も艶な形もあのお文さまの文章のとほり、ただ白骨のみぞ残れりぢゃ。必ず／＼アノお文様を灰寄せに読まさぬようにしてくれよ」とこぼす涙は身に熱湯、ただ『アイ／＼』とばかりにて延紙の数々泣きつくす「サアサアもう七つでもあろ。おれはそろそろ礼拵へ。」稲でもつめと手を引かれ鴛鴦の片羽の別れ路や泣く音立てねど振袖に包む涙に脇寒く胸は冷やせど是非もなく伴ひうちへ入りにけり早元朝の暁近く、折から家内騒ぎ立ち母のおかつは走り出で「悲しやお染が自害したわいの」とワッっとばかりに泣き沈む。駈け来る久作「お染様が自害したとは後手になったかチェ口惜しやガマア気懸かりは蔵の内」と戸を押し開きすかして見て「ヤア久松も首括ったアア可愛や」と腰も抜け泣くは難波の河千鳥浮き名を流す追善と哀れを残す角屋敷、つきせぬ筆に伝へけり。
'99/10/17