ファイル入力は鶴澤燕三さんです
古市油屋の段
こそは帰りけり。後にお紺はうっとりと、しばし思案にくれ告ぐる遠寺の鐘も身にしみて、ときつく胸の闇やゝあって顔を上げ、「せっかく思ひ思はれて、二世と交した貢さん、のかねばならぬ浮世の義理。今伯母御様のお詞には、許婚の榊さんと祝言をさゝねば、養子親への義理が立たぬ故、思ひ切ってくれい、とも事を分けてのお頼み、とは言へこれが何とまあ、一夜流れの仇夢も、別れは惜しき明けの鐘、炎の中に暮らそうが、あなたを退いて片時も浮世の日影が見られうか、むごいつれない胴欲な、別れと云ふ字を聞いてさへ胸にしみじみ悲しい」と恨み涙にくれいたる。「モこの中からくれ／＼も、頼ましゃんした折紙の詮議、アノ奥の客が確かに持っている、とは思へども、帯紐解かねば肌身は許さず、アゝどうせうぞ、ヲゝそれよ、この身をまかすも夫の為、折紙を取返し、潔う自害して、未来の契りを待つが楽しみ、せめては死後の言訳を」泣く／＼硯引き寄せて、書き置く鹿の巻筆も、今宵限りの命毛と、又伏し沈み泣きいたる。
「お紺さん／＼／＼はどこにぞ」と云ひつゝ出て来る遣手の万野、見つけられじと文巻き取り、心もうわの空封じ、知らぬ万野は声高に、「お紺さん／＼／＼／＼ヲゝお紺さんそこにかいな、そんな事知らずに、一辺と尋ねましたわいな、イヤコレシコレお紺さんへ、モ今更言うじゃないが、この間からも勧めているアノ岩次さん、モ大体良いお客じゃないぞえ、それにお前も物好きな、いかに心中立つるとて、アノかすねぎの貢づら、オ、ホゝゝゝお紺さん、堪忍しておくんなはいや、ホゝゝゝモ今もいまとてお鹿さんが、貢さんから度々の無心状、誠かと思ふて身の皮はいで打ち込んだが、モウ悔しいと私への懺悔、コレシコレお紺さんへ、この文を見やしゃんせ、アノ口先でちょぽくさと、古市中の女郎の油をねづり廻る油虫、モその油虫の事はとんと思ひ切り、岩次さんになびかんすりゃお前も出世、コレシコレお紺さんへ、この万野は悪い事は勧めませぬぞへ、モゝゝゝゝふっつりと思ひ切らしゃんせ」とたきつけかける詞のわら、それとは知れど、真顔に受け、「ヲゝ成程、この状の様子では、興の覚めた貢さん、そんならお前の言わしゃんす通り、岩次さんに乗り替へようわいな」「エゝアノお紺さん、そんならお前はん、ほんまに岩さんに乗り替へる気かへ」「何の嘘を言ふものかいな」「お紺さん、ヲゝ好きやヨヤ／＼よ、ホゝゝゝゝ、コリャコレ、近年の大出来ぢゃわいなお紺さん、ヲゝよさやヨヤ／＼よ、ホゝゝゝゝ、そんならすぐに奥へ行て、改めて固めの盃、サア／＼おいで」と無理やりに、引っ立てられて詮方も涙隠して入りにけり。
かくとは知らず、うと／＼と、恋には心引かれ来る、身の災難に福岡貢、とやかく案じたゝずみける。「ムゝあの唄は、油屋の二階座敷、阿波の客が居続け騒ぎ、テモマ面白さうに唄いおるな、それに引替え心ならぬは万次郎様のお身の上、今宵につづまる御身の難儀、お紺に頼んだ折紙の詮議、今に何の返事も無いは、コリャ岩次の手に無いのか知らん、マア何にもせよ、お紺にちょっと逢ひたい」と見廻す内より出て来る喜助、出会ひ頭に、「ヤア若旦那さん」「ヲゝ喜助か、ヤ幸ひ／＼、どうぞ首尾してお紺に一寸逢わしてたも」「ヘイ、かしこまりました」と奥口見廻し、「イヤ申し若旦那さん、はばかりながら一寸あれへ」「喜助、わしにか」「ヘイ」「何の用じゃ」「モ、今改めて申上げまするは如何なれ共、いつぞやお国の騒動より、この伊勢路へお引越しなされまして、あなた様には福岡へ御養子、それ故親共も奉公引いて、この古市にてわづかな暮らし、そののち大病を患ひ、今際の枕元へ私を呼び、アノ福岡孫太夫様の御養子貢様は、我々親子が古主の若旦那様、随分共に心をつけて、忠義を尽くせ、と親共が遺言でござります、それで私もどうぞ御恩が送りたい／＼と存じますれ共、モたかが料理人風情の私、その大切なあなた様が、毎日毎夜の遊所通ひ、お紺さんとの浮名は、古市中いっぱい、福岡様には許婚の奥様も有り、御養子の御身分で、あゝ言ふお身持ちではお為にならぬ、いつぞは御意見申したい／＼と思ふ折からこのお出会ひ、イヤ申し若旦那さん、余りせき／＼お出なされます所じゃござりませぬぞへ、イヤモ、何をちょこざいなと思し召しませうが、モかやうに慮外を申しまするもつづまる所はあなたのお為、ホンニ私は夜の目も合わず、案じてばっかりおりまするわい、ム、ハゝゝゝゝ、ヤコレハシタリ、モ何事もご存知のあなた様、必ずお気にさへられて、ヘイ、／＼、／＼／＼／＼、下さりますな」「ムゝ、スリャそちは喜兵衛が伜であったよな、ヤコレハシタリ、モさすれば我が為にも家来同然、古主を忘れぬそちが意見、悪うは受けぬ、忝い、がマア、」それは格別、コリャコレ、大切な一腰、わしが持っていては人目に立つ、帰る迄預かってたも」「ヘイ、私がしっかりとお預り申しました」「アゝコレ、その一腰は、青江下坂」「エゝそんならこれが」「いかにも、刀は手に入れども、これについたる折紙を騙られ、モ色々と詮議をすれ共、今において行き方知れず、何とぞ折紙を取り返さんと、毎夜ここへ入り込むも、もしや詮議の手掛かりも有らふかと、心を砕く某、アゝコレ、必ず他言は無用ぢゃぞや」「ヤコレハ／＼左様とも存ぜず、慮外の段は真平御容赦、シテ、その折紙を騙った奴が、この油屋の内に」「サ、確かにそれとは知らね共、もしやと思ふはアノ奥の、アコレ喜助、一寸耳を貸しゃ」「ヘイ、エ、そんならアノ岩次が」「アゝコレシイ、秘かに／＼、何かは奥の大騒ぎに」「首尾を作るは最究竟」「そんなら喜助」「若旦那さん、サア、こう、おいで、なされませ」と先に立つ、案内につれて福岡貢、のれんの奥へ入りにけり。
こなたの障子引明けて、伺い出でたる徳島岩次、何か心に打ちうなづき、差し足抜き足のれの内、忍び入って二腰の刀をそっと後先見廻し、おのが刀と貢が刀、手早に目釘コッチコチ、身をすり替へる即座の悪知恵、のれんの影より伺う喜助、それと白刃の二腰を、元の如くに差納め、又も納戸へ持って入る。
お紺はすごす無理酒の酔ひに心も乱れ足、「岩次さん／＼」と呼び立てられて、出て来る岩次、「ヲゝ岩さんとした事が、座敷をはづしてお前はどこへ」「アゝイヤ、一寸手水に」「アノマア嘘ばっかり」「何の嘘を言ふてよいものか、証拠人は、北六、万野、ソレ、用意よくば早これへ」と云ふ内奥に声高砂、相に相生の松こそ目出度かりけれ
北六万野が取り／＼に、とさん盃硯蓋、名々にたづさへて、「サア／＼申しお紺さん、岩次さんへの固めの盃、色直しはすぐに床入り」「サア／＼媒介役はこの北六、嫁君から呑んで差し給へ」と無理に突きつけつぎかくれば、堪へかねて駈け出る貢、お紺が盃引ったくり落花微塵と投げつけたり。「ヤイお紺、おのりゃこの盃しては済むまい／＼ぞよ」「ムゝ、誰かと思へば貢さん、お客と盃するがどうして済まぬへ」「イヤサ、一通りの盃なら格別、この盃斗りさす事は、ならぬわい、コリャお紺、おのりゃこれ迄言ひ交わした事皆忘れたな、モ最前から見ていれば、ほてくろしい座敷ぶり、エゝも了見が」と立ちかかるを、岩次は引きのけ、「ヤイ／＼／＼かすねぎの大馬鹿者め、身が揚げ詰めの女郎に指でもささば、ほでも、すねも、ぶち折るぞよ」と云ふに万野がしゃしゃり出で、「コレシコレ貢さん、お前はんマアこちの内へ、誰が許してござんしたへ、お前の様な油虫はな、顔見るのも胸が悪いアイ、起縁が悪い、サア／＼／＼／＼とっとと去んで貰ひましょ」とずっかり言われて、尚せき立ち、「コリャ万野、わりゃマア味な事云ふな、この貢が女郎の油をいつ吸ふた事が有る、サア／＼／＼／＼、それ聞こう／＼」「ヲゝアノマア白々しい顔わいな、ヤコレシコレお紺さんへ、最前の文、見せてやらんせ」と云ふにお紺が懐より、取出し渡す以前の文、いち／＼貢が見てびっくり、「ヤコリャおれが名を騙って、女郎のお鹿へ無心の状」「何と覚えがあらふがな」「イヤ、知らぬ、元より訳ある仲じゃなし、こんな文やった覚へはない、あた汚いあのお鹿、風俗と云ひ面と云ひ、しっかい猿芝居のお染、ハゝ、余り呆れて物が云はれぬ」と悪口聞いて、駈け出るお鹿、貢が前に台臼なり、「コレシコレ貢さん、最前から聞いていれば、おまはん余りじゃぞへ／＼、アイ、私やどうでお紺さんの様に美しうはない、／＼けれど、顔でお客は取らぬぞな、コレ、肝心の時にはな、ぐったり堪能さすによって、ついに一日お茶ひいた事はござんせぬ、お前もそれを見込みに、アノ万野さんを頼んでつけ文、その度々に、アゝコゝゝゝコレ／＼見なされ、この通りにな、二歩一寸お貸し、ソレ又、この状に、三歩貸せ、エゝまだここにあるわいな、ソレ見なされ、又一両いるのと、モ親にも聞かぬ無心をば、五度や十度の事かいな」「エゝ何を」「それに今更知らぬとは、ソリャお前、卑怯じゃ／＼／＼／＼／＼／＼わいな、筆先でたらし込み、身の皮はいだ生盗人、エゝ腹の立つ／＼」と、言ひつつ両手に胸づくし、引っつかむ手をもぎ放し、「エゝ様々のたわ言、身不肖なれども福岡貢、そちらに無心言ふ様なおれじゃないわい、コリャお紺、これには何ぞ訳が有らふ、訳を言へ、どふじゃ／＼ヤイ」「ヲゝ、お前の内証の文が私の手に入り、腹の立つはコリャ尤もでござんす、ガ申し貢さん、お前と私が仲は、人も知った、サ仲ぢゃぞへ、金の要る事が有るならば、打ち明けて、こふ／＼と言ふて下さんしたら、何ぼ甲斐性の無い私でも、三十両や、五十両の金、まんざら否とも言ふまいに、わづか、二歩や三歩のはした金、お鹿さんに無心言ふとは、モみす／＼知れた、イヤサ、見下げ果てた心じゃな、モウ／＼／＼色も恋も醒め果てたわいな、それじゃによってふっつりと、お前の事を思ひ切り、岩さんになびくのでござんす、アイ、そふ思ふて下さんせ」とけんもほろろに言ひ放す、「コリャヤイお紺、おのりゃ気が違うたな、おのりゃ、モ流れの身にも誠ある者と思ひ、取交わした起請誓詞、まだその上に大切、サア大事の事迄請け合ひ乍ら、わりゃそれじゃ済むまいがな」「イイエ、あたどんな違ひました、イヤサ気が違ひました、アイ、性根がくさりましたわいな、モまい／＼／＼／＼まいつかずと、早ふ去んで下さんせ」と口には言へど、心には、ヲゝ道理でござんす道理ぢゃと、言ふに言われぬこの場の仕儀、血を吐く思ひ押し隠す。
知らぬ貢は腹立涙、傍に北六高笑ひ、「ハゝゝゝコリャおかしいわい、客が女郎の物騙して取るとは、こいつは新しいわい、コリャ新版じゃわい、ハゝゝゝゝこれが本の伊勢乞食じゃ、／＼」何がな当る憎て口、岩次も片頬にせせら笑ひ、「アゝイヤモ聞けば聞く程馬鹿な詮索だわい、お紺が心底聞く上は、今夜中に身請して身が女房、ドレ、金の威光を見せうわい」とお紺がひざを仮枕、すねふん反らす、傍若無人、見に貢は歯ぎしみ歯切り、「エゝ見違うたアノここな、どふ畜生、その根性とは知らず、大事を明かしたが、エゝ無念なわい、とは云へおのれに限ってよもやその様な根性とは知らなんだ、エゝ知らなんだわい」と、にらむ眼にはら／＼涙、お紺が胸はなほ百倍、破裂く斗りのせ苦しさ、涙まぎらす、煙草さへ、炎にむせる思ひなり。
納戸に始終立聞く喜助、刀を持って走り出で、「貢様、モウお帰りなされませ、悪い事は申しませぬ、／＼、サ、お預り申したお腰の物」と差出す刀、ひったくり、腰に差す間も気はしゅらくら、刀の違ひに目もつかず、万野は傍へ立寄って、「コレシコレ貢さん、お前はんもうそれでしゃべり仕舞ひかへ、ヲゝ気の毒やの、ヤコレシコレ貢さん、一寸こちらへおいなんせ、サア／＼／＼／＼／＼早うごんせ、早う、エゝ、早うおいなんせと言ふに、ヤナニ、貢さんへ、最前から段々の失礼、サア／＼／＼／＼お腹が立とうご尤もでござんす／＼／＼、が、私に免じてどふぞ、堪忍して上げておくれなんせ、ヤコレシコレ貢さん、なんぼお前がやき／＼／＼／＼／＼やき／＼／＼／＼／＼思はんしてもな、ソレぜぜの切れ目が縁の切れ目じゃわいな、アノお紺さんを恨みなさる事は微塵も無いぞへ、お前のその素寒貧を恨まんせ、モ本に／＼、お前の様な貧乏神はな、片時置くも内の不吉、サアサゝゝとっととお帰り、／＼／＼、アイ、よふおいなはったへ、サゝゝお帰り／＼、何ぞ忘れ物、煙草入れ、ドレ／＼／＼私が取って来てあげませう／＼サゝゝゝソレ、煙草入れ、サ、エゝまだ他になんぞ忘れ物、ナニ、お羽織、ホゝゝゝサアお羽織、サアお帰り／＼、去にんかいな、／＼、エゝ去にやがれ」と突き出す門口、こらへかねて刀の柄、手はかけながら忠孝の、二字に引かれて喰ひしばる、「チェゝゝうぬ」「ナゝゝ何じゃへ／＼、歯をむき出し、草来子をひねくって、アゝ何かへ、コリャ私を切る気かへ、面白い／＼、サア／＼／＼／＼切られましょ／＼／＼サアお切り、／＼／＼」「コリャ万野、おのれはなァ」「何じゃへ、／＼、サアお切りなんせ、手から切るけへ、首から切るけへ、おいどからかへ、エゝどっから切るのじゃ、貢さん」「ムゝゝ、エイ勝手にさらせ」道をけたてゝ立ち帰る。
万野は後を見送って、「サア／＼／＼油虫の幕が切れた、サア／＼／＼岩次さん北六さん、これからは色直し、お床入りの卵酒、お紺さんも一緒にサア／＼／＼／＼二階へ／＼」と言ふもそれ者の高調子、「イエ／＼、わたしゃまだ岩さんに帯紐は得解かぬわいな」「ムゝスリャなぜ／＼」「サイナア、お前の持っていやしゃんす袱紗包み、定めて色の起請か文、それ見ぬ内は疑ひは晴れぬわいな」「ナニ、これか、アゝコリャコレ大切な、アゝイヤ大切な、／＼／＼／＼、金比羅様のお守りさ」「サヨシ金比羅様のお守りにもせよ、私に見せて下さんせにゃ、真実心が解けぬわいな」「ムゝ、テモ扨も、女郎と言ふものは、マ疑ひ深いものだハゝゝゝ、ア是非に及ばぬ、大切な品なれども、そちにしっかり預くるぞ」「アイ」アイ／＼合点も一寸のがれ、嬉しさこわさ、胴ぶるい、足を踏みしめ段ばしご、二階へこそは、上り行く。
岩次は後に声ひそめ、「コリャ万野、身が刀を早これへ」と言ふに心得のれんの内、刀かゝへて走り出で、渡すを取って、打ち眺め、「ヨウ、コリャコレ身が刀ではないわい」「エゝそんなら貢が取違へて去んだに違ひはない」と言ふに北六勇み出で、「何だ、貢が刀を取違へて去んだとは天の与へ／＼／＼、これこそ望む青江下坂」「アゝイヤ／＼それが大間違ひだわい、最前秘かに貢が刀と身が刀、中身をすりかへ置いたに、取違へて去にをったが本の下坂」「エゝどんな、私が一寸一走り」「アゝイヤ／＼申し、そのお使ひは私が参りませう」と言ひつゝ納戸を出る喜助、「ヲゝ喜助か、よく気がついた、貢に追付き、腰の物を替へて来い、サ早う／＼」と手に渡せば、「ヤまっかせ合点」と、駈けり行く・
万野はにわかに心付き、「コレ／＼申し岩次さん、お前はんはマアめっそうなお方じゃわいな、アノ喜助はな、確か、貢が譜代の家来じゃといな」聞くより岩次は興醒め顔、「サア／＼／＼壺じゃ／＼」「岩次さん、壺とは何壺じゃへ、水壺かへ、塩壺かへ、但しは子壺かへ」「ヤアコリャ／＼万野、あわてな／＼、と言ふて身共もあわてておるわい。コリャ／＼万野、そちは喜助に追付いて刀を取り、貢が刀と替へて来い」「ハイ／＼、心得ました、貢に逢ふて刀をたくり、きっとお渡し申しませう、ドリャ、一走り」と身づくろい、褄引上げ、「ヲゝイ喜助どん／＼」と声は先、体は後に心も空、足を早めて、「ハ、ゝ、ゝ、アゝしんど／＼一寸待って、喜助どん、／＼、ヲーイ喜助どん」と走り行く。
岩次は後を見送って、「万野が戻って来る迄は、皆を相手に二階で飲もう、サア／＼こちへ」と打ち連れて、二階へ
奥庭十人斬りの段
こそは行く後へ。又引返す、福岡貢、取違へたる脇差の、身は正真の下坂とも、知らず、知らねば気もそぞろ、門の戸引明け内に入り、「誰も居ぬか、コリャ喜助／＼万野／＼は居ぬか、エゝ居らぬか」と見廻す折しも遣手の万野、息もすた／＼立戻り、顔見合わせて、「ヤア貢さん、アゝしんど、／＼、貢さん、おまはんいかにあわてるてゝ、腰の物を取違へると言ふ様な、粗相な事があるものかいな、サ、その刀こっちへ」と取りにかゝるを突放し、「イヤ、身が刀から先へ渡せ」「エゝマア渡さぬとて取らずに置ふか、エゝこの刀」と取りにかゝるを続けざま、打てばぱっしり鞘割れて、思はず知らずひと刀、「アゝちめた／＼、アゝ貢さん、おまはん切りなはったな、アレ／＼」と泣き叫ぶ、声立てさせじと口に手を当て、見れば血潮に身は紅、「南無三手が廻ったか、モウ百年目」と又ずっかり、切られながらに逃げ行くを、たぶさつかんで引戻し、あばらをぐっとひとえぐり、そのまま息は絶え果てたり。
折しも奥より北六岩次、後に続いて出て来るお鹿、「岩次さん、北六さん／＼」と尋ねる向ふに立ちふさがる、ヤア貢さん、アレ、人越しじゃ／＼、アレ／＼、と云ふ声に、コリャさせぬはと北六岩次、とめにかゝるを身をかわし、左へ廻る北六を、肩先下がりに切りつくれば、コリャかなわぬと機転の岩次、奥庭さして、逃れ行く。
お鹿は足も地につかずこけつまろびつ這ひ廻る、「おのれお鹿」と云ふ声に、思はず知らず立ち上がり、逃げゆく後ろをのがさじと、踊り上って、唐竹割り。
物音聞きつけ勝手より、起番男中居下女、「物騒がしきは何事」と、差出す中居が手燭の光、振向く拍子貢が顔、見るより三人足わな／＼、「ヤレ人殺し／＼／＼／＼／＼じゃ」と、云ふ間も待たず左より、右の腕を切り落し、うん、と中居が即死の有様、見る両人が、うろたへ廻り、奥より表へ逃げ行く男、外へ出でなば面倒と、声をもかけず後ろ袈裟、返す刀に下女が首、水のたまらず切り落す。
音もわからぬ寝とぼけの、子女郎が出づる足元に、のりにすべってばったりと、こける拍子にお鹿がそば、「ヲゝこの様な所に水を流して、ヲゝつめた、ヲゝこゝに寝てじゃは誰じゃいな、コレ起きんかいな、／＼」と云ひつゝ立寄り見て、びっくり、「アレ、お鹿さんが切られてじゃ、アレ／＼」と云ふ間もなく片足丁、と切り放せば、片足立ちにひいふうみい、よろ／＼／＼と、鉢前の、手水鉢に取りついてそのまゝ息は絶え果てし、無惨と云ふも余りあり。
「サアこの上は岩次一人、取逃しては、刀の在処、この一間こそ、ム、それ」と、伺ふ内より泊まり客、「アゝ一杯機嫌にぐったりと寝てのけた、酔ざめの水の心地や、朝桜か、ハゝゝゝゝ、ヲゝこりゃ火が消えてあるわい」と、云ひつゝ出づる廊下口、伺ふ貢が刃の光、「コリャたまらぬ」と逃げ行く庭先逃ぐる人影岩次と心得、追ふて行く。
寝間より出づる合方女郎、貢を客と心得て、「申しこのひっさんわいな、どこへ行きなんす、申しそちらは前栽ざますよ、落ちなんすなへ、危ないざますよ、水ざいますか、コレシナアコレ、水ならこちらにあるわいな」と、しごきも脇へ、しどもなき、裾もほら／＼、追ひ行く女郎、振返って拝み打ち、客はほう／＼樹木の影に、息をつめてぞかがみ居る、「コハ心得ず」と燈籠の影にすかして、「確かに岩次ござんなれ」と、襟際つかみ引き出だし、土にさしつけにじりつけ、「サア、下坂の刀はいづくへやりしぞ、真直ぐに白状ひろげ」と、ひしぎ付けられ、「アゝ申し、私は何も知りませぬ」「ヤア今になって知らぬとは卑怯至極、云はぬとて云はさいで置こふか」と、云ふ内に来る人音に「南無三」と、ためらふひまにはね返し、逃げ行く後を横なぐり、すぐに立寄り顔見れば、「ヤアコリャ岩次ではなし、チェゝ取逃がせしか残念」と、こぶしを握り居たりける。
お紺は驚き心も空、こけつまろびつ走り寄り、「貢さん」「ヤアお紺か、覚悟致せ」と突きかける、「マア／＼待って下さんせ、サア／＼／＼腹の立つは尤もなれど、これには段々訳の有る事」「ヤア何の訳の事」と、又振り上ぐる刀の下、「コエイナアコレ、マア気を鎮めてとっくりと、これ見て疑ひ晴らして」と、投出す包み手に取り上げ、「ヤア、コリャコレ折紙、ムゝ、そんなら宵のつれなきは」「サイナア、お前に忠義が立てさせたさ、どうやらかうやら岩次を騙し、首尾よう手に入るこの折紙」と、云ふに貢は「ハゝア」今更に、後悔涙の折からに。
喜助は心あらざれば、もしやと思ひ立帰る、「喜助か」「ムゝ若旦那さん、シテこの有様は」「どうも堪忍ならぬ故、喜助、赦してくれ」と刀の柄に手をかくれば、その手を押えて、「コリャ狼狽えて何をなされます」「ヲゝ狼狽えた、最前そちに預けた刀」「サアそれはそこに持ってござるのが本の下坂」「ヨウ、そんならこれが、エゝ有難や、／＼な」「サア申し、二色共に揃ふ上は、一時も早う万次郎様へ、早々お渡しなされませ」「喜助、お紺、段々の心遣ひ、何も云はぬ、忝い、シテ、この場の首尾は」「ヘイ、私が呑み込みました、後構はずと万次郎様へ」「ムゝ、しからば喜助、後を頼む」と云ひ捨てゝ、立出でんとする所へ。
木陰をぬっと徳島岩次、「ヤアどこへ／＼、大事の刀こっちへ渡せと」打ってかゝれば身をかわし、「シヤよい所へ徳島岩次、おのれを方々尋ねしにこゝへ出でたは百年目」と、打ってかゝれば切り払ひ切り結び、すきを見合わせひと刀、ウン、と倒るをのっかゝり、「恨みの刀受け取れ」と、差し通されて七転八倒心地よくこそ、見へにけり。
そばにお紺が心せき、「夏の夜なれば早明方、少しも早うその刀を」「フン、云ふにや及ぶ、忠義を立つるも二人の情」と、心も勇む足勇む、忠義に、心勇み立ち、屋敷を差して、急ぎ行く
2013.6.30