明烏六花曙　 山名屋の段 TXT

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山名屋の段

座敷も静かなる雪はまだ残りて寒き春の風、吹き晴れぬ身の浦里が、湯上り姿そのままに、禿のみどりうち連れて、上る二階の部屋の内、それとみどりが煙草盆、煙に憂さは晴しても、晴れぬ思ひの時次郎、誰が恋人と夕間暮、堰かれて今は山名屋の浦里にさへ怨めしく、人目の関を忍ぶ身の、雪の夜道を迷ひ来て塀の外面にしよんぼりと「あゝ憂き世の中とは云ひながら、水の流れと人の行く末。先立つて御主人の重宝、臥龍梅の一軸紛失したる我が過り。それ故に勘当うけ、忍び忍びに詮議すれども、今において手掛りもなく、浦里にまで憂き苦労。とても生きては居られぬ身。せめてみどりが顔なりとも、よそながらいとまごい思ひ回せば回す程、これまで契りし効（かい）もなし。通ひ廓に咲く花の色香も深く馴れ染めし浦里にまで今ははや、逢ふ事さへも儘ならぬ憂き世の中の有様か」と身のなる果ての悔みごと。それとも知らず「ノウみどり。そなたに渡した昨日の文、見つけられぬように持つて行つてたもつたか」「アイそりや気遣ひはござんせぬ。時次郎さんに直に渡しました」「アヽこれ声が高い。もそつと静かに云やいのう」「アイ」とみどりが心得し、傍（あたり）をそつと高欄より塀の外面を見下して、目早くみどりが「アレもうし、時さんが塀の外に来ていさんすわいなあ」と聞くにうれしさ浦里は走りかかつて高欄に手をかけながら伸上り「ノウ時様、よう逢ひに来て下んした」と云ふに思はず時次郎、振り仰向けど松が枝に、せきくる涙はら／＼と、互ひに積る恋の渕心に濡るゝばかりなり。「イヤ申し時次郎様。どうした因果でこの様に、堰きにせかれて逢ひたさの、猶いや増る恋の闇。初会にふつと可愛さの、身にしみ／＼となつかしく人目の関の夜着の中明けて悔しき鬢の髪ついとき上ぐる櫛の歯も、言ひ度い事の数々も今は言はれぬ二人が中、恋しい人を振捨てて一人ぬる夜の手枕も、彼の邯鄲の枕なら夢になりともせめてまあ、添臥す事もあれかしと、わしや幻に見ようとて惚れはせぬものあぢきなや」と我が身をとんと高欄にもたれかゝりし立姿、柳の枝に春雨の風吹き添ゆる風情なり。男は漸う涙を抑ヘ「いつ迄斯うして居たとても限りもなき互の中、長居する程そなたの身づまり、とは言ひながらそのみどり。親ともえ言はず親方の目顔を忍び子心にもさぞや恨みん不便や」とくどき歎けば二階にはみどりを膝に引寄せて、はつとばかりに取乱し又も涙にむせびける。折から来かゝる足音にはつと驚き立ち上る。機転きかして禿のみどり、のべを丸めて塀の外、投げやるしらせに時次郎、様子あらんと用水の蔭に隠れて忍びいる。部屋の戸あけて髪結のおたつ、それと見るより「オヽ花魁へ。さぞ待ち遠にござんせう。最前から気がせいて早う来たいと思ふ程、意地の悪い、今日はたんと仕事もつかへ、又あつちこつちの部屋部屋から呼びに参じてあるけれど、そこ／＼にして抜けて来た。しかし花魁、お前はきつう済まぬ顔。目元も潤みどこぞ悪うござんすかへ。これみどり、ちと気をつけて薬でもあげやいのう」「アイ最前からそう思ふていさんすけれど、薬は厭ぢやと云ひやんす」「オヽみどりの云やる通り、ちと気分も悪けれど薬服むのも厭になり櫛入れるのもきつうすまぬ程に、おたつさん今日はマアやめにしやんしよワイナ」「オヽそうぢやてて、そのまあ髱（つと）のばらつき様つい一寸櫛入れたら、お前の心の縺れ髪、もうさつぱりと気も晴れさうな事ぢやぞヘ」「オヽおたつさんの云はんす事わいの。たとヘ縺れる気が晴れても、こう結び目が緩んでは、つひばらばらにならうかとそれが悲しいホヽヽヽヽヽ、気にかかるわいな」「さあその気にかかる結び目を、しやんと止めるが私の手の内。まあ鏡台に」と無理やりにすすめられても進み兼ね、向ふ鏡は曇らねど、曇る思ひの海山に茂りてつらき憂き涙、流れの身には猶積る雪風寒き塀の外、通ふ心の穂に出づる色目をみどりが汲み取る目遣ひそらさぬ顔で吸ひ付る煙草の煙空に吹くおたつもさすが物馴れし、世間話を取り混ぜて「いやもうし花魁、モウ世間の事と云ふものはその身にならねば知れぬもの。私も昔を思ひ出せば満更こうでもなかつたが、こう云へばおかしい話する様なれど、どうした事やら常々からお前の事が気にかかり、イヤサお前に聞いて貰ひたいと思うて居た話、まあまあ一寸聞いて下んせ。アノ私が様なみつともない女子でも、たとへに云ふ鬼も十八とやらで、どないか思ふてくれたが、今の主ぢやわいな。ホヽヽ色々と口説かれ、マア／＼今のが済んだと思わんせ。サア深うなつて来て、モウ何の事はない、指切、髪切と云ふ様になると、コリヤ友達にこうした事で金が要る。二分貸せ。三分貸せ。サアしまふた、コリヤ小遣ひの銭箱にしられたわい。と思ふたれど、サア迷ふたが因果。エヽ儘よ、若い時は二度はないと、仕面工面して、とうとう小袖箪笥も何時の程。状の取り遣り沢山に、紙屑が一杯詰つた揚句には、心中に出ようと乗が来た所、常から仲の好い友達が止めてくれたが幸ひとなつて、今では夫婦が気安う暮らす。モウこうなると栄耀の八百、一寸気に入らぬ事があると『ヤイ出て失せい暇やるわ』とモウ憎てらしい。愛想もこそも尽き果てる。千年の恋も覚めると、よう云ふた事ぢやと、サ思ふも年の功丈ぢやわいな」「オヽおたつ様とした事が、私達が様な勤めの身で可愛いと思ふ人もなし。思ふてくれるお客も又、広い世界にないものぢやわいなア」「サア／＼／＼そこぢやわいな。そうは云ふものの花魁も今が恋盛り。毎夜々々のお客にも、深い可愛い、もう命もやりたい、と云ふやうな主が出来ると、サア何が親方は堰く、逢はれはせず、せう事なしにつきつめて、長い命を短かうする事私が身に覚えがある。殊に又その中、このみどりと云ふ様な可愛いらしい子でもあると、無分別は出されぬ出されぬ。義理と云ふのも、可愛いと云ふのも命あつての事いな。オヽこれはしたり、つい話に身が入つて、髱（つと）直すのを忘れた」とつい立上る筋立の気さくな意見浦里が、目には泣かねど心には、満つる涙の増す鏡、月も哀れと曇るらん。みどりも泣く／＼櫛箱を、取片付けばおたつもともに、汲取り涙立上り「ドレ／＼これから向ひの東屋ヘ往て参じよう。花魁さばヘ」と云ひつゝも、降りる梯子を廻り縁、そつと切戸を開けて出る。おたつは二階を振り返り「コレみどり。勝手へ廻ると隙がいる。この切戸から向ひへ行く程に、部屋で、ナソレしつぽりとしめてたも」と、小蔭に忍ぶ時次郎を無理に押しやる切戸口、ばつたり閉めてさあらぬ顔傘振りかたげ小提灯、提げておたつは急ぎ行く。人の情に引き入れられ時次郎は段梯子、疾しや遅しと駈け上り、走り寄つて浦里が、手に手を執つて緊め泣きに、ただ咽び入るばかりなり。涙ながらに時次郎、「何時迄くどき歎いても、帰らぬ今の我が身の不運、とても生きては居られぬこの身。そなたも共にと云ひたいが、二人一緒に死すならば、後で可愛いやこのみどりは、どうなるものぞ不憫やな。今死ぬる身をながらへて、我が亡き後で一片の回向を頼む、浦里」と、聞く程せきくる涙ながら「ソリヤあんまりぢや情ない。今宵別れて私が身や、可愛いみどりは何となろうと思わんす。死なねばならぬ覚悟なら、三途の川もコレこの様に、親子手を執り諸共と、何故に云ふては下さんせぬ気強い男」とばかりにて、身を顫はして泣き居たる心ぞ思ひ遣られけり。折から遣手の声として、「浦里さん／＼、一寸お目にかかりたい、ちやつと降りて下さんせ、早う／＼」とせはしなく、喚きながらも段梯子、上る足音浦里が、胸に轟き時次郎を無理に炬燵へ忍ばすればみどりは機転ありあはす夜着打ち着せて立ち退けばさあらぬ体に「オヽおかやさんとした事が仰山な何の用でござんすヘ」「エヽ何の用、何の用とは白々しい。サアお前にちよつと用がある。旦那さんが呼んで来いと云はんした。みどりも一緒にきり／＼ごんせ」と、引き立てられ、何と答へも浦里が、心を残す炬燵より胸の動悸のやるせなく、禿のみどり諸共に、呵責の鬼に追ひ立てられ、悄々立つて行く後から、あたりを睨むかやが目の光り輝く奥座敷、引立ててこそ

ゆく空の闇は綾なき浦里がふさがる胸の氷より今を限りの憂き思ひ、足もしどろにふるわれて、冷たさ怖さ禿のみどり、谺に響く駒下駄の、音も鋭き縁先の障子開くれば主の勘兵衛。白髪まぜりの頑丈親父、火鉢に差し込む鉄灸の、さも物凄きその顔色。見るに二人ははつとばかり、気も魂消入る思ひ、胸おししづめ縁側に手をつかゆれば、じろりと見て「コリヤ浦里。そちに尋ぬる用事と云ふは、他でもない。わりや時次郎と云ふ毛二才めに、何ぞ頼まれた事があらうがな。サア有様に話して聞かせ」と問われてハツと浦里が轟く胸をなでおろし「旦那様のお言葉なれど、わたしや誰にも頼まれた覚えは更々ござんせぬわいな」「フンとてもこの分では吐かしをるまい。ヨシコリヤおかや、最前云ひつけた通り、庭の立樹に縛（くく）し上げ白状させよ」と鋭き言葉。「アツ」とおかやが立ち寄つて、泣き入る浦里引き起し、上帯解いて縛り上げ、雪持つ松の荒皮も、喰ひ入るばかり縛り付け、庭に有り合ふ竹箒、振り上げて「サア浦里さん。もう叶はぬぞへ。ありやうに白状さんせ。アノ餓鬼の様になつている時次郎めに心中立て、意見しても抜け歩き、そのお報ひが来たのもコレ、私が業ではござんせぬぞへ。必ず恨んで下んすな。日頃の事はさておいて、最前も旦那様に、わつつくどいつ詫言しても、お聞き入れ遊ばさぬ。主命なれば是非がない。痛い目せぬうち、サ云はんせ」と、噛み付く如く罵るおかや、何と答（いらえ）も泣き入る浦里、「エヽしぶとい」と振り上ぐる箒持つ手に取り縋るみどりを、突き退けはね退けて、りう／＼はつしと打ち擲（たた）く。擲きたてられ浦里が、髪も形も取り乱す雪の膚にいとど猶ほ見るに悲しさ稚な気に主の方を伏し拝み、おかやが裾に取り付いて、「もう堪忍なされてあげまして下さりませ」と歎くみどりを引つつかみ、「おのれも共にみせしめ」と上締めの紐引きほどき、縛り付けたる有様を、見るに不憫と時次郎、もう是までと高欄より、飛んで下りんとするところ、浦里目早く、「アヽコレ今こな様が出やしやんして、イヤサ今こな様が縛らんしたみどりは可愛。サア可愛と思うて居さんしよけれど、おかや様はお主の手前、ナサア夫ぢやによつて悪い／＼」と目のうちで知らすを悟る時次郎、出るに出られぬ此の場の時宜、かかる歎きも我故と、蒲団に喰ひ付き泣き居たる。物をも云はず主の勘兵衛、鉄灸引提げ庭の面、泣き沈みたる浦里が髻つかんで声荒らげ、「ヤアかやうに厳しく折檻するも、おのれが心に覚へがあらう。最前裏の切戸から忍び込んだる時次郎、この勘兵衛が預り置いたる金岡が一軸、詮議などとは片腹撚れる、コリヤ、あれを見よ。床に掛けしは金岡が一軸、指さすことも、いつかな叶はぬ。サア浦里、わりや時次郎に頼まれしに相違無い。サア有様に言ふてしまへ」「サア左様な事、頼まれし覚えはござりませぬわいな」「エヽしぶとい女郎め、とてもおのれでは吐かしをるまい。アヽ聞けば時次郎とおのれが中の真実の子といふ事は知れてある。コリヤみどり、その時次郎は何処に居る、それから吐かせ」「イヤ知りませぬ」「アコレ申し、みどりが何の知りませう」「アヽイヤ／＼お前が傍に居ながら、みどりが知らぬとは云はさぬぞヘ」「オヽそれ／＼、サア白状しをれ」と言ひつゝはつたと打ち据ゑられ「アヽ術ないわいのふ」「サア苦しくば吐かせ」「イヤ知らぬ」「コレ申し花魁、詫言して下され。死んだらもう逢はれぬ父様。逢ひたい見たい」と子心に、親を慕ふ心根を、傍で見る目の浦里より、こなたの二階に時次郎、『オヽ道理ぢや。是に』と口のうち声をも立てず喰ひしばる。とは知らず主の勘兵衛、「アヽ何をいふやら耳へ入らぬ。「エヽしぶとい小びつちよめ。思ひ知らさん。ヤこれ喰らへ」と、鉄灸振り上げ続け打ち、打ちすへらるゝ悲しさは、この世からなる八寒地獄大焦熱の苦しみに、息も絶へ／＼絶へ入るみどり、逃げんとすれど締め搦む、か弱き背中いとひなく、剛気の勘兵衛引つつかみはつしはつしと打ち据へれば惜しや色増す若みどり、アツ一声倒れ伏す。さしもの勘兵衛呆れ果て、苦りきつて座に直れば、浦里重き顔を上げ、「誰を恨みん、身の罪科、恋故今の憂き苦痛。我身一つは厭はねど、何にも知らぬこのみどり、かかる憂き目を見せるのも皆私から起つた事、堪忍してたも、こらへてたも。子供心に聞き分けて、親は目先にありながら、陽気浮気の酒事に、所体崩して殿御の事、逢ひたい見たいとしどもなき、母を持つたがそなたが因果、因果同士が報ひ来て悪縁深き契りぢや」と、前後も更にわきまへず、庭に喰ひ付き伏し転び流す涙は春雨に、雪解け乱すばかりなり。欠伸まじりにおかやは立ち寄り、「テモマアしぶとい子やのう、とても白状せぬからはおのれもついでに冥途の供」と、又も箒を振り上げる。折から来かかる手代彦六、この体見るより、「コリヤどうぢや」と走り寄つて引き退くれば、おかやはむつとし、「コレ彦さん、お前はマア何で浦里が肩を持ちに出やしやんした」「なんだ肩をもつ。へヽ無躾ながらこの手代、貴様達に用はない、ずつとそつちへ寄つていや／＼と云ふに。へヽヽヽはばかりながらこの手代が、旦那様へ一寸お願ひがござります。エヽ何でござりますわい、ムヽアノ可愛らしい浦里、ではないアノみどり、又浦里は常々から私が、アイヤイヤ常々から気質は好いものでござりますヘイ、そこを見込んでこの彦六が女房、アイヤ折檻は手代の役、白状は私が致させまする。何卒お任せ下さらば、ヘイ／＼／＼有難い仕合せ」と云ふに、主は打ち頷き、「マヽ他の者なら許さねども、暫しの内は彦六おかや、そちら二人に預け置く。きつと白状致させよ」と、己が仕業の罪科も、後日の難は両人に譲る心の奥の間の襖押し開け入りにけり。後見送つて彦六が、浦里が傍にちよつつくばひ「イヤコレお浦、今旦那が何と云ふたへ『他の者なら許さねども、しばしの内は彦六、その方に預けおく』、何とどうぢや、えらひ者ぢやあろうがの。ぢやによつて常々から俺が云ふやうにさへすりや、この様な痛い目に逢ひはすまいに。イヤ又俺が素振を見てわがみと俺との疑ひもあるぢやあろ、アヽコレ腹立ちやんなや。ここが辛抱ぢやわいの。廓に有り内ぢやがな、だんないがな。ここはまた俺しだいぢや。ヤコレお浦、そさまさへウンと云や、コレこの手代がノウ、ソレ深き心の荒磯海ぢや。これ程までに思ふもの捨て行くとは、さりとては鬼より恐い御心、ドビンテツビンカンテキ七リンリン／＼とけつかるがなハヽヽヽヽ」「コレ／＼彦様、旦那に請合ひながら、白状さゝうとはしもせいで浦里さへ見りやべた／＼と見苦しい。私が心の思ひのたけ堪能さそうとはしもせいであつたら憎い、お前に任しておいたらば、この白状は得さすまい。ドレ私が代ろ」と立ち寄るをとつて突き退け、「おつとどつこいそつこいどつこいそうはさせんどうの不動様、とけつかるわい。ガ又貴様の云ふ事ぢやが、その御面相とした事が、しつかい宣徳の向ふ獅子みる様な面をして、この彦様に惚れたとは、旦那の手前も面目ないわい。それよリマアこの浦里が、いましめから解いてやろ」と、後へ廻るを、おかやがとつて突き退くれば、箒押つ取り会釈なく、おかやが腰骨滅多打ち叩き倒され雪まぶれ、忽ち凍え取りつめて、「ウン」とばかりにドウと伏す。その間にちやつと彦六が、二人のいましめ解きほどく、はずみにみどりは目を開き「ヤアかゝ様はそこにか」と聞いて浦里夢見し心地「まだ生きて居てたもつたか」とみどりを膝に抱き上げ、嬉し涙ぞ限りなき。彦六はでかし顔、「こう二人を助けたからは、こうしてはおられまい、もしも知れたら俺を縛つてかくの通り、ヤア、こいつは壷ぢや。とても遁れぬ俺が身の上、ムヽいつそ二人を連れて退き、君を我等がかたげて出て二人しつぽり暮すなら、雪に凍えて死すとても、だんない／＼コレ大事ない。ほんに忘れたへそくりの路銀を取つてくる間、ここを離れず待つて居や。見付けられな」と足早やに、己一人が呑み込んで、勝手へ走り入る後は、怖さひやいさ身はわな／＼、見やる彼方の二階より忍び／＼で屋根伝ひ。今宵一夜のかけ橋と、足もそぞろに定めなき、難なく下り来る時次郎。「ヤアお前は時様、何時の間に」「アヽこれ声が高い。最前から何事も残らず聞いた。可愛い二人が憂目に逢ふも皆我故と、悲しい中の悦びは最前主が云ひしを二階で聞くや否や、忍び入つてよく見れば、これこそ真に日頃尋ぬる金岡が自筆の一軸。エヽ忝いと人なきを幸ひに、我が手に入りしはそなたの蔭。コレこう／＼」と囁き合ひ、庭へおりしも足音に、機転の浦里行灯の火、吹き消す合図に彦六が探り足して、「コレ／＼／＼お浦、これさへ有れば一飛びに、そさまと一緒に抜け、そうぢや／＼／＼、幸ひ裏の切戸から二人は先へ出で給へ。我等は最前見ておいた、アノ床の間の掛物をせしめて来る内この銀子を、必ずきつと預ける」と財布を渡し彦六が奥へ行く後、浦里はみどりが手を引き切戸口、虎口の難を逃るゝ思ひ奥をうろ／＼彦六が掛物なければとつかはと出る足元行きあたり、拍子に気の付く遣り手のおかや「ヤア彦さんかいの」としがみ付く。顔見てびつくり騒ぎ出し「ヤア桑原々々たすけ船」と叫ぶに、こなたは又びっくり。みどりを背に時次郎「サアおぢや、ござれ」と頷き合ひ、互に手に手を鶏の声、何処をさしてゆく空や、はや東雲の明烏、飛ぶが如くに遠近や後の噂や残るらん